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天文学史2『天文学の始まり/メソポタミア天文学』

中1の時に書いたやつの続きです


   先ほども言った通り天文学は科学の中で最も古い学問の一つで、その起源は文字の無い先史時代の宗教的な信仰や習慣であり、その名残として世界各地で占星術のような天文学を用いた宗教的な占いが行われており、この天文学を用いた占いなどは長い期間、政府と結びついて戦とかの時にも使われ、16世紀以降、天文学が学問として発達した後も、宗教的な占星術などは残り続けた。

 天文学が生まれた頃、人類は天体と神や精霊を同一視し、それらの天体やその動きは、神や精霊の動きとして、雨や旱魃、季節、潮の満ち引きなどの気象現象と関連つけられており、そのため、一般的に世界で最初の天文学者達は司祭達で合ったとされる。

ちなみに現存する最古の天文学的な記録である可能性のあるものは、3万3千年前から1万年前頃に描かれたとされるフランスのラスコー洞窟で、この絵の中にはプレアデス星団や夏の大三角形、かんむり座を表現した物である可能性がある図がある。

 全世界に於いて暦は、基本的に太陽と月の観測により作成される場合が多く、これは、新石器時代革命以降、農業に依存して安定した食料を得ていた文明では、きっちりと適切な時期に植え付けを行わないと作物の収穫ができず、飢え死ぬため太陽の動きを観察しなければならないというのと、スマホライトも懐中電灯も当然存在しない古代では夜に動く時、必ず月明かりが必要であるため、夜に安全に何かするためには月を調べなければならない事などが要因として考えられ、実際、年は公転による気候の繰り返し、月は地球の月の位置の変化による月の満ち欠けの繰り返し、日は自転により起こる夜と昼の繰り返しが一周するのを一つの単位としおり、この、現在使われる暦はヨーロッパ文明の基礎と言えるローマ帝国で用いられた者が改良された物である。


  現在の天文学の元である西洋天文学の起源はメソポタミア文明の天文学で、紀元前3500〜3000年頃に、メソポタミア南部のシュメールが人類初のちゃんとした文字である楔形文字を発明、様々な学問が発達したとされ、天文学については前1200年頃のバビロニア、つまりメソポタミア南部の、シュメール地方とアッカド地方を治めていた国で作られた星座早見盤などの遺物からかなり発達した物であった事が推察され、シュメール語には数多くの星に名前が付けられているため、それ以前、青銅器時代が始まった頃くらいには既に天文学が発達していた可能性が高く、シュメール人の神話とアッカド人などの神話が融合して誕生したメソポタミア神話においては、惑星の神々が重要な神となっており、これは恐らく古くから天文学が発達していたシュメールの神話由来の物である。

また、メソポタミアでは六十進法が使われた、つまり、日本では十までの数が数の基本で字も言葉も十以上の数は何個かの数字の組み合わせで表すが、

メソポタミアでは六十が基準に用いられており、これもシュメールでは59の数字まで独自の記号や呼び方があり、

これは現在でも一分が100秒とかではなく60秒だったり、同じく一時間が60分だったりなど、

時間の長さを表す時や、円を360に分けるあの角度の表し方などに使われる。

ちなみに、セム系民族、つまりアラブ人とかユダヤ人とかアッカド人とかの系統の民族がメソポタミア南東部の湿地地域カルデア地方に多く移住、新バビロニアを建国してメソポタミアを制圧した事に因み、メソポタミアに住んでいたセム系諸部族をまとめてカルデア人と呼ぶのだが、これは単に天文学者を表すのにも使われていた事があり、googleで調べたら    カレンダーの語源であるとも書いてあったが、それに関してはデマである。

 このように古くから天文学が行われたメソポタミアだが、天文現象が周期的に一定の法則を持って起こっていることを認識して、それを、数を使い表した最初の記録は、一年の間に起こる日照時間、つまり日が登っている時間の長さの変化を数学に応用した、バビロン第一王朝の時代のバビロニア地方の石版の記録で、その後、数百年に亘りバビロニアの住民達はEnūma Anu Enlilと呼ばれる楔形文字で石版に天文学の記録を書いたものを作る。

エヌーマ・アヌ・エンリル文書群の中で最も古い文書はバビロン第一王朝建国者のハンムラビから数えた四番目の王アンミ・サドゥカの治世の最も平和だった時代のVenus Tabletで、ここには21年に渡り金星の出現が記録されており、既に惑星が周期的に動いていると認識されていた最古の証拠でもあり、MUL.APINという文書には星と星座のカタログの他、惑星の出現と消滅の時間を計算した式、水時計・グノモン・影・閏などを用いて日照時間を計測した事が記録されている。

このようなバビロニア天文学の文書の量と質がぐんと上がったのは紀元前8世紀中期のナボナッサル王の時代以降で、ここから始まったバビロニアの天文日誌には多くの気象現象が体系建てて記録されており、月食が18年に一回発生する事などが発見されるなどもあり、後の時代のギリシアの天文学者プトレマイオスはナボナッサルの時代がバビロニア天文学の始まりであると記録している。

バビロニア天文学の最後の発展段階はギリシア人のセレウコス朝シリアというギリシアに沢山あった国の一つであるマケドニアの王、アレクサンドロス大王が中東統一を成し遂げたアケメネス朝を滅ぼして築いた巨大帝国が、大王の死後にディアドコイ戦争を通して家臣達に分割された際、中東周辺を支配したセレウコスの子孫の国の支配下になった、前4世紀から前1世紀頃の時代に起こり、この時代の天文学者達は標年テクストという文書を作って、惑星運動を予測、この文書は大量の過去の観測記録を纏めた物で、これが作られる前後には過去の記録を見る事なく、惑星運動を予測できる数学的なモデルを作成している。

このセレウコス朝シリアがさっき言った通りヨーロッパのギリシア人によって支配された国で、その後にセレウコス朝の領土だった地域を併合するローマがイギリスからエジプトまでを支配する巨大国家でヨーロッパ文化の原点となった事、中東で生まれたイスラーム文化がメソポタミア地域を拠点として発展し中央アジア・北アフリカ・南アジア・東南アジアにまで及んだ事などでバビロニア天文学はギリシア天文学、インド天文学、ペルシア天文学、ビザンツ天文学、イスラーム天文学、西欧天文学の基礎となった。

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