美術史第26章『バロック美術-前編-』
17世紀のヨーロッパでは「17世紀の危機」と呼ばれる小氷期の寒冷化による飢饉やペストの大流行、英蘭戦争や三十年戦争などの戦乱の多発、アメリカ大陸を植民地化した事でアメリカ大陸の銀が大量に入りハイパーインフレ「価格革命」が発生した。
これにより、民衆が困窮するなど非常に荒れた時代が訪れ、多くの民衆が北アメリカ大陸に移住、カリブ海ではプランテーション運営のために多くのアフリカ人が奴隷として働かされた。
17世紀のイングランドもといイギリスでは清教徒革命で議会が王を追放し国を支配、その後の名誉革命で王が戻って以降も「権利の章典」が発布され立憲君主制や議会制民主主義の形が取られる様になり、逆に同じ時期のフランスではルイ13世により王の権力が非常に強い絶対王政が確立された。
また、東欧のロシアは東への征服活動を開始しシベリアを征服した上に当時の強国ポーランド=リトアニアからウクライナ地方を奪うなど勢力を拡大、16世紀にデンマークとノルウェーとのカルマル同盟を脱退した北欧スウェーデンではグスタフ2世アドルフによりバルト帝国と呼ばれる大国となり植民地も建設した。
民主的になったイギリスと混乱に巻き込まれなかったオランダは東インド会社という組織を作りアジアに進出するなどし、そのアジアでは中東・北アフリカ・東ヨーロッパを支配するオスマン帝国と、南アジアを支配するムガル帝国が繁栄していたが、オスマン帝国は第二次ウィーン包囲や大トルコ戦争でヨーロッパ諸国に敗北しやや弱体化、ムガル帝国も南インドのマラーター王国とのデカン戦争が泥沼化していった。
また、この頃のヨーロッパでは微分積分、万有引力、光のスペクトルなどを発見したアイザック・ニュートンや、月のクレーターや木星の衛星、天の川が星の集合体である事などを発見したガリレオ・ガリレイ、惑星の軌道が楕円である事を発見し正確な太陽系の形を明らかにしたヨハネス・ケプラーなどが活躍し、「科学革命」と呼ばれる飛躍的な科学の進歩が発生している。
そんな時代の中で起こった盛期ルネサンスの伝統を受け継ぎながら時間の概念を取り入れた風俗画、風景画、静物画など実社会に密着したものをテーマとした美術のことをバロック美術と言い、バロック美術はルネサンス時代から続いて教皇のいるローマなどが中心地となっていたが、18世紀初頭になるとルイ14世の領土拡大や絶対王政の確立によりフランスが強力となり、バロック美術でもフランスが重要な地域となっていった。
また、バロックより前のマニエリスムの時代にはアジアとヨーロッパを繋ぐ重要な都市であったヴェネツィアが美術の進化の地となっていたが、1580年代にはアンニーバレ・カラッチという画家がボローニャに画塾を設立すると、カラッチのマニエリスムの抽象的な様式と自然で写実的な様式の融合を試みる探究は大きな影響を与えることとなった。
カラッチの影響を強く受けたミラノ出身の画家ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジオは映像に見えるほどの超写実性や光と影を明確に書き分ける手法を確立、ローマでは「果物籠を持つ少年」「病めるバッカス」「トランプ詐欺師」「奏楽者たち」「バッカス」「トカゲに噛まれた少年」「悔悛するマグダラのマリア」「ホロフェルスの首を斬るユーディット」「エマオの晩餐」などを描いた。
17世紀に入るとカラヴァッジオは多くの注文を受けるローマで最も成功した画家となり「聖マタイの召命」「キリストの捕縛」「キリストの埋葬」「ロレートの聖母」「聖母の死」「愛の勝利」などを制作、殺人によるローマ逃亡後にはナポリで「ロザリオの聖母」「慈悲の七つの行い」など、マルタで「洗礼者聖ヨハネの斬首」などを描き、暴力事件で投獄されマルタから逃げた先のシチリアでも活躍した。
カラヴァッジオの絵画はその描き方から教会からの批判なども受けたが、熱狂的な支持者を生み出し、カラッチやカラヴァッジオなどによりバロック美術の絵画は確立されたといえる。