美術史第63章『イスラム美術の開始』
7世紀中頃に誕生したイスラム勢力はイスラム教の開祖で史上初めてアラビア半島一帯を統一したムハンマドと、その正当な後継者とされる「カリフ」の初代となりアラブ諸部族を一つの「イスラム帝国」にまとめ上げたアブー・バクル、弱っていたローマ帝国の後継国家ビザンツ帝国の領土であったシリア、メソポタミア、エジプト、パレスチナ、リビアを征服し、もう一つの大帝国サーサーン朝も壊滅させた二代目カリフのウマル、ウマルの征服事業を受け継ぎサーサーン朝ペルシアの広大な領土を完全併合した三代目カリフのウスマーンにより、西アジア・北東アフリカ・西南アジアを支配する巨大勢力へ発展した。
その後、四代目カリフであるアリーの時代にアリーとムアーウィアという人物による継承戦争が発生し、二人が和解した事に反発したハワーリジュ派によりアリーが暗殺、結局、ムアーウィアがカリフとなり、7世紀後期以降はムアーウィアの属すウマイヤ家がイスラム帝国支配を独占、「ウマイヤ朝」が誕生し、ここにウマイヤ家がカリフになるべきとするスンニ派とアリーの一族がカリフになるべきとするシーア派の二大派閥が分裂した。
ウマイヤ朝が誕生する以前のイスラム帝国の美術については情報が少ないが、ムハンマドの暮らしたメディナの「預言者の家」は非常に重要で、ここはイスラム教がまだ誕生したばかりの頃に集会が行われた場所であるとされ、「多柱式の礼拝する空間」「礼拝の方向を示すキブラ」「人々のアラビアの酷暑から守る日陰」という三つ意義を持つとされる。
これはイスラムの「モスク」建築の原型となったが、木造建築であったため当然、現在は存在せず、その跡地周辺一帯にはイスラム教のモスクでムハンマドのマウソレウムでもある「預言者のモスク」という100万人が収容できる巨大建築が建っている。
この「預言者のモスク」は四代目カリフのアリーがメソポタミアのクーファに遷都するまで、政府本部として機能した場所であり、また、モスクに必ず設置される説教する時にのぼる壇「ミンバル」はここにあった説教用の高くなった部分が元になっている。
そして、7世紀末期に開始したウマイヤ朝の時代、宗教的・世俗的な建築が新たに発展し始め、アブドゥルマリクがユダヤ教の第二神殿の跡地に建設した開祖ムハンマドが天に昇った岩を祀るモスク「岩のドーム」がウマイヤ時代の最も重要な建造物として挙げられる。
この頃にはまだモザイクやその構造にビザンツ美術の影響が見られるが、その後の18世紀初頭、ウマイヤ朝が首都としたシリア地方のダマスカスに「ウマイヤ・モスク」が建設されると、これはモスクの中でも金曜日に多くの人が集まって祈る中心的な場所である大モスクの決定版のように扱われ、これ以降、中庭と多柱式の礼拝室からなる「アラブ様式」が確立された。
ウマイヤド・モスクの装飾はビザンツ美術の装飾から動物や人を取り除き植物や街に置き換えたものになり、ウマイヤド・モスクより前に建設された「アル=アクサー・モスク」もアラブ様式の間取りの元となっているとされ、これ以降、独自のイスラム美術が発展を開始させた。
また、ウマイヤ朝はパレスチナ地域の砂漠に「砂漠の城」と総称される宿場、保養地、要塞、カリフと遊牧民が接触する宮殿などの目的で作られた建造物群を建設しており、中でも代表的な「アムラ城」には天体図や動物、裸婦、各国の王や皇帝などが描かれたフレスコ画が残っており、絵画でも当時はまだギリシアやローマの美術の影響が強かった事が窺える。
さらにアムラ城という存在自体もローマの公衆浴場「バルネア」を継承した「ハンマーム」という施設であり、ウマイヤ朝によって計画、設計されたアンジャルとラムラという町は中心部を南北に貫く道路「カルド・マクシムス」と東西に貫く「デクマヌス・マクシムス」というローマ帝国の建設した都市のやり方がそのまま使われている。
このように初期のイスラム美術は明確にビザンツ、ローマ、ギリシアやサーサーン朝の美術と明瞭に分けられるものではないものの、モチーフや要素をイスラム式に再適応させ独自の発展を徐々に開始したと言える。