真夜中の赤信号
「おかあさん、あの人なんで渡っちゃうの?」
保育園の帰り道、点滅を終えて赤に変わった横断歩道を走る大人を指して、娘が問う。
答えられなかった。
「急いでたのかな」
「そうだ、指さすのは、やめとこうね」
あれ、わたし話を逸らしているじゃないか。
わたしもそういう子どもだった。
守ろうと言った大人が、ルールを無視したり逸脱しているのを、見逃さなかったし、追求したし、言い訳言い逃れはバッサリと指摘した。
食べながらお話ししてはいけません
電車の中ではうるさくしてはだめ
相手を傷つけたらごめんなさいだよ
思い返せば、理不尽な要求はそんなになくて
生きていくためのマナー、
そんなレベルのことだったし
今でも覚えてるくらいだから、まぁ、ありがたい。
でも、親も先生も、破っていたんだよね。
それならルールなんて何のためにあるんだろう。
子どもだけが守らなくちゃいけないなんて。
子どもだけが守らなくちゃいけないルールなんてない。ただ、社会の仕組みの中では、物理的に小さくて非力な子どもが、「生きていける」ように最低限必要なこと、はあるとわかったのは、親になってから。
大人になった、親になったわたしは
でも、わたしだって、誰もいない、車もいない横断歩道なら、赤でも渡る。真夜中の赤信号なら、ほぼ100%渡っている。
日中でも、単身で急いでいたら、多分渡る。
娘には内緒だけど。
次の日の帰り道、横断歩道はまた点滅していた。
走っていく大人を眺めながら娘がいろんなことを呟いた。
「おとなはさ、チカチカしてても間に合うから、行ってもいいのかな」
「でもさ、わたるときくるまのひとにありがと!って手したほうがいいよね」
「青になったら、くるまのひとに見えるように、手をあげるんだよね」
「おかあさんは大きいから、手をあげなくてもくるまからみえるんだよね」
物事を、道理を、本気で。
そうだ、娘にはそうやって、理由も合わせて教えていたんだった。そして、私たち親子が渡るときに待っててくれる車に、わたしがお礼のように片手を上げているのを、よく見ていたのだ。
下手に嘘をついたり、ごまかしたりしない。
物事を、道理を、本気で伝えるだけだ。
ルールだよ、だけでなく、何のためにあるのかも、セットで。
真夜中にひとりで出歩くこともしばらく先だし
子どもの多いこの街で、日中赤信号突破は憚られる。
一緒にルールを守りながら、どう伝えるのか考えよう。
でもね、
「エスカレーターを歩くおとな」だけは、
説明する道理がまだ見当たらない。
「歩きたいなら階段行けばいいのにね」
「そうだよね」と返すしか、まだ手がない。
ルールじゃなくてマナーは、正解も伝え方も難しい。