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【試し読み】『この世からすべての「ムダ」が消えたなら』資源・食品・お金・時間まで、あらゆる問題を「ムダ」で読み解く!

7/17刊行『この世からすべての「ムダ」が消えたなら:資源・食品・お金・時間まで浪費される世界を読み解く』から試し読みをお届けします!

本書ではレジ袋やプラスチックといったムダの代名詞はもちろん、リサイクル、スマートフォン、ファッション、はては時間やお金まで「ムダ」にまつわるありとあらゆるトピックを取り上げています。
そして「もしもムダがなかったら、世の中はどんな姿になるのだろうか?」という疑問に答えることで、世界の正しい見方を読者に提示します。

これまでありそうでなかった「ムダ」を切り口としたユニークな本書を読んで、決して「ムダ」にならない知識を手に入れてみてはいかがでしょうか。

『この世からすべての「ムダ」が消えたなら:資源・食品・お金・時間まで浪費される世界を読み解く』

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はじめに  ムダのない世界に向けて

 ネットショップでパソコンのケーブルを注文したとしよう。商品の入った箱が配送トラックで自宅に届き、ハサミはどこだと1〜2分ムダにしてから、重ね貼りされたテープを切りひらく。
 外箱はあとでゴミに出すとして、まずは中から商品を取りだし、包装をあけ、その包装も捨てる。購入したケーブルがようやく姿を現す。
 ところが、パソコンにつなごうとあれこれ試して何分かムダにしたあげく、なんだよ、違うケーブルを頼んじゃったみたいだ。本当に必要なのはどれだろう? さらに時間をムダにして調べる。返品するケーブルを梱包しなおすのに空しく時間を費やし、オンラインの返品手続にまた何分かが奪われる。

 配送トラックが集荷に来て、どこかの返品センターに急行し、そこで担当者が箱をあけ、返金の手続きをし、商品をメーカーに送りかえすか、返品商品用の大箱に入れておくかし、後者の場合はどこかの会社がそれをまとめて仕入れるかもしれず、そうしたらその会社は商品をぜんぶ選りわけ、ジャンルごとに分類し、それを販売するための作業に取りかかり、それから……って、いや、もうわかってくれたと思う。
 おまけに、交換してもらったケーブルが不良品だったらどうなる?

 たった一回の購入ミスでどれだけの面倒が降りかかってくるか、考えるだけでうんざりする。しかもこんな大騒ぎをたいていの人がごく普通に経験している。こういうミスが積もり積もれば、はかり知れないほどのムダになる。

 そうはいっても、この先本書で待ちうけるムダの大きさに比べたら、ケーブルの購入ミスなど可愛いものである。もっとカメラを引いて全体を眺めてみれば、広大なムダの海が横たわっているのに気づくはずだ。そこでは交通渋滞で時間をムダにしたり、車の排熱がムダになったりするのはもちろんのこと、戦争までもがムダと切りはなせない関係にある。こうしたムダの事例についてはすべて本書でじっくりと探っていく。しかしムダの元凶を追究するだけでは、問題のうわつらをなでているにすぎない。さらに一歩下がってみると、もっともっと大きなムダの世界があらわになる。貧しい人たちの潜在能力が発揮されないままに終わり、死ななくてもいい人の命が意味なく失われ、ほかにもさまざまなムダのまかり通る世界が。

 ムダはいたるところにある。見抜く目を養いさえすれば、ムダがそこらじゅうに転がっているのがわかるだろう。ガソリンスタンドで車を満タンにするときには、どうしても何滴かガソリンがこぼれてしまうものだ。今度そんなことがあったら、ぜひ思いだしてほしい。その数滴を毎度毎度ぜんぶ足していったら、わずか一年でエクソン・バルディーズ号の原油流出事故にも引けを取らない大変な量になるのだと。しかもそれが毎年続く。アメリカだけで。芝刈り機などの庭用機器にガソリンを入れるときに漏れる分も同じである。残らずためていったら、やはりそれだけでエクソン・バルディーズ級の原油流出事故が毎年起きているのと変わらない。

 タンカーが座礁して原油が流れでたり、パイプラインが破裂したりすれば、かならずニュースの見出しを飾る。けれど、ほんの数ミリリットルのガソリン漏れなど話題にもされない。私たちだって「少しムダにしちゃったな」くらいのことを思いはする。だが、ムダや効率の悪さが暮らしの中で積みかさなっていくことには無頓着だし、それが最終的にどんな結果・・をもたらすかを深く考えることもない。

 著者ふたりはこの本を書く際、さまざまなリサーチを通して現代生活にどれだけムダがつきものかを理解しようとした。するとたちまち、ムダにまつわるいろいろなことにいかに自分たちが無知だったかを突きつけられた。そこで、ありとあらゆる疑問をリストアップしてみることにした。たとえば次のような問いである。

・ キッチンで液体をこぼしたら、ペーパータオルで拭くのがいいのか、それとも濡れぶきんのほうがいいのか。
・これまでただの一度も戦争が起きていなかったら、世界はどう変わっていたか。
・ バルク品〔業者向けにロット販売された商品を個人向けにばら売りしたもの〕を安く買って浮いた金額と、それが早くだめになって失う金額とではどちらが大きいか。
・私たちは1日24時間のうちのどの部分をムダにしているのか。
・ダイエットをして痩せたとき、そのなくなった体重は具体的にどこへ消えるのか。

 答えが楽に見つかる疑問もある。たとえばペーパータオルの件についていうと、濡れぶきんのほうがムダが少ない。ただし、蛇口から温かい水が出るまで待ったり、使用するたびにきれいにゆすいだりしないなら、という条件がつく。どちらかをやってしまうようなら、ペーパータオルを使うほうがいい。

 ダイエットに関しては、減った体重の84パーセントは二酸化炭素(CO²)として口から吐きだされ、16パーセントは尿、汗、涙となって水として出ていく。人間の排出するCO²がムダな廃棄物なのかどうかはのちの章で取りあげる。尿は何の役にも立たず(あなたが尿内のミネラルを再利用する主義なら話は別だが)、汗はそこまでの決めつけはできない(いわずと知れた体温調節という役目を果たしているので)。涙がどの程度ムダかはみなさんの判断にゆだねよう。

 ついでにいうと、減った体重の一パーセントたりとも実際に「燃やされる」わけではないし、それが体を動かす力や熱にじかに変換されることもない(体は特殊な分子の化学結合を切断することでエネルギーと体温を得ている)。要するに、口に入れた食物のひと嚙みひと嚙みが、最後は気体と水になって外界へ戻っていくということである(大便は最近食べたものが元になっているので、そもそも「身」になったことがない)。

 しかし、それ以外の領域で生じるムダに目を向けると、そこまで明快にああだこうだとはいいきれない。直感と大きく食いちがう答えにもたびたび出くわす。ムダにしか見えない物事であっても、実際には常軌を逸しているわけではなく、少し掘りさげたら綿密な計算がひそんでいるケースは少なくない。たとえばアルミニウムを製錬するのに、地球を半周したところから船で鉱石を運ぶのがなぜ理にかなっているのか。スーパーボウルの優勝チームのロゴ入りTシャツや帽子を製作するのに、大一番で勝ちを逃すチームの分まで事前につくっておくのはどうしてなのか。

 誰だって何かをムダにしたい・・・と思ってはいないし、なんとかムダを避けようと懸命に知恵を絞っている。それはそれで立派な姿勢だ。しかし、良かれと思ってムダを省こうとすることが、省く以上にムダを増やしている事例も世間には事欠かない。

 少し前にアメリカで「フリーガン」〔消費主義に背を向け、廃品回収や廃棄食料の利用などを通して生活する人〕の一家を特集したドキュメンタリーが放映され、一年のあいだ廃棄食料だけで暮らす様子が紹介されていた。放っておいたらゴミになる食料を飲み食いすれば、ムダと非効率から世界を救えるというのが一家の思いである。ところが、その「ムダにされた」カロリーを手に入れる際には、車を使ってあちこちへ移動していた。それを走らせるガソリンは再生可能な資源ではなく、結局は再生不能な資源を使って再生可能な資源(食料)を取りに行っている。ほかにも、運転にかかる時間や、車自体が消耗して価値が下がるなど、ムダと無縁とはいいがたい。

 物事には目に見える部分と見えない部分があり、その両方が本書の大きなテーマのひとつになる。ムダを考えるとき、山ほどの食料が廃棄される光景なら難なく頭に浮かぶ。その一方で、ムダを避けようとするあまり、そこから第二・第三の余波が生まれていることにはなかなか気づけないものだ。ムダを理解するには、何層か深いところまでもぐっていかなければならない場合が多い。そこまでして初めて、うわべはムダに思える(もしくはムダがないように思える)ふるまいが、じつはその対極にあることがあぶり出される。

 紙とプラスチックではどちらがいいか。飛行機と自動車ならどちらを利用すべきか。こうした問題はたやすく答えが出そうでいて、実際は恐ろしいほどに込みいっている。紙を再利用するのは素晴らしいことではあるが、そのためにわざわざトラックが回収に来なくてはいけない。トラックが古新聞を積んで町の端から端まで走ったら、マイナスの影響がプラスの面を上回る。

 この種の判断を下すときには、どちらがまだましかという視点でさまざまな選択肢を検討する必要がある。たとえば、メタンとCO²ではどちらのほうが環境への負荷が小さくて済むのか。大量の淡水と少量の燃料と、ムダにするならどちらのほうがまだいいのか。

 もちろん、どんな燃料かによっても、その淡水がどこから来るかによっても答えは違ってくるし、アイスランドとパキスタンで正解は同じではない。おまけに、勘を頼りにしていたらあっさり間違えてしまうほどに、予想外の答えはたくさんある。ライフサイクル全体でのCO²排出量を比べたときに、一家のSUV車より飼い犬のほうが大きいだなんていったい誰が思うだろう。

 こういう事実を知ったとして、自分の行動をどう改めたらいいのだろうか。いちいち悩む時間がどこある? 生活のこまごまとした部分について1000のルールを勉強して、ケチャップはプラスチック入りとガラスびん入りのどちらを買えばいいかまで理解することはできる。でも、そういうルールは不変の真理などではなく、たいていは状況しだいで変わるものだとしたら? そこまで学びたがる人がどこにいるだろう。

 私たちはたびたび選択を迫られる。「気候変動が思いきりひどくなるのと、強圧的な政治体制を支持することになるのと、ブラジルの多雨林で生物が絶滅する結果につながるのが選択肢だとしたら、どれを選んだらいい?」濡れぶきんのときのように明快な答えが出るケースと違って、何をどう判断するにも不確かさが消えることはない。どの道に踏みだしたとしても、そこはかとない罪の意識がつきまとう。

 さらには、一部の人があり余る資源を浪費する一方で、利用できる資源がなきに等しい人もいる。この現実を思うと、やましさと罪の意識が一段とつのり、単純明快さはますます遠のいていく。どう考えていいかわからなくて身動きがとれないというのは、噓偽りのない実感である。

 この状況にけりをつけたくて、「考えないようにする」という答えに走る人は少なくない。悩んだあげくに、「まあ、どうせひとりの人間にたいしたことはできないからね」という姿勢に落ちつくのである。しかし、数滴のガソリン漏れが積もり積もってエクソン・バルディーズになるように、ひとりひとりの行動がすべて合わされば実際に違いを生むものだ。それに、なんだかんだいって、あらゆるムダを減らしたいというのがほとんどの人の本音であって、どの選択が「正解」かがわかりさえすれば普通はそれを選ぶ。

 これが私たちの抱える矛盾の正体だ。いまは情報時代なので、理屈のうえではたいていのことについて知識が手に入るはずである。だが、現実にはそううまくはいかない。現代は生活のさまざまな側面がつながり合っているせいで、数々の複雑なシステムどうしの相互作用がかえってつかみにくくなっている面もある。イギリスの哲学者トマス・ホッブズは「地獄とは、真実に気づくのが遅すぎることである」という名言を残した。それでも、まずはとにかく真実に気づくことが私たちの課題なのである。

 やはり消費を抑えるしかないだろうとの声もある。いまより少ないモノでどうにかやっていこう、と。なるほどと思える賢明な助言ではあるが、それこそが採るべき道だとはいいがたい。だって、どれくらい削減すればいい? それに、どこを削る? アンチロック・ブレーキシステムや出生前診断をちょっと省く? 冷蔵設備やがん治療薬を減らす? ピザを食べる回数を少なくする? それともトッピングを控えめにすればそれでいい? 世俗的な快楽と消費を遠ざけて修行僧のように生きるだなんて、西側に暮らす大多数の人間には無理な相談だし、そうしてみようとすら思わないだろう。だとすれば、これもまたどう見ても正解ではない。

 こんなことを考えていたら途方に暮れるばかりだ。それでも、斜に構えて人の努力をあざ笑ったり、複雑さに嫌気が差してさじを投げたりしないことが大事である。ムダを最小限に抑えるような、あるいはせめてムダを減らすような生き方はかならず・・・・見つかる。とはいえ、そもそもどれだけのムダをなくせるものなのだろうか。

 この疑問に突きあたったとき、本書のテーマは変わった。初めは、ムダとはどういうものかを学ぶ本にするつもりでいた。だが著者ふたりがそれ以上に興味をそそられたのは、ムダがなかったら・・・・・世界がどんな姿になるかを考えることである。これっぽっちのムダも存在しない世界。紙ゴミも出なければフードロスもない。時間もムダにならず、優れた頭脳や人の命が空しく失われることもない。

 こういう疑問を投げかけることにはどんな意味があるだろう。もちろんこれは頭の中のシミュレーションである。本当にムダのない世界に生きたければ、私たちが森羅万象についてほぼ完全な知識を得ていないといけない。だが、そんな日は絶対に来ない。それでも、どこまでなら挑めるのか、その限界までどうやって進めばいいのか、それを見きわめる作業に本書では取り組んでみたいと思っている。

 一本の物差しを思いうかべてほしい。その右端には、完璧な効率に支配された世界がたたずむ。ここにはいっさいのムダがなく、10の力が10出る状況があらゆる場面で当たり前になっている。左端には、すべてがムダでしかない世界が広がる。時間という時間が、金という金が、何から何までがことごとくムダにされている世界だ。本書のためのリサーチをする過程で、いまの私たちは大きく左に寄っていることに著者ふたりは気づいた。ムダしかない世界は目と鼻の先である。いったいなぜ? どうすればそんなことに?

 人間がこれだけのムダをまき散らしているのは、ムダを正しく理解していないからだと著者ふたりは確信するようになった。効率の悪さと誤った情報が一緒になってムダだらけの世界をつくりだし、気づけば私たちはその中にいる。それはどういう仕組みによるものだろうか。

 ムダのない世界に向けて先ほどの物差しを移動していくことはできるし、そうすれば誰もがいまより幸せで健康な暮らしを送れる。それが本書を通して伝えたいメッセージだ。

 これは政策についてとやかくいうための本ではない。もちろん、政策の問題にいっさい切りこまないわけではなく、ペットボトルのデポジット制度はうまくいっているのか、レジ袋の使用を法律で禁止してどれだけの効果があるのかといった話は登場する。ただ、本書では政治的な選択よりも、科学や経済やシステムのほうに軸足を置いている。恥ずかしさや罪の意識を抱かせることで何かをさせようというのが本書の狙いではない。そうではなく、著者たちと同じ探究の旅に読者をいざなうことで、なぜムダが生じるのかを理解してもらうとともに、ムダのない世界がどういうものかを思いえがいてもらうことを目指している。

■ ■ ■

本書の目次

第Ⅰ部 ムダと環境
ゴミ処理はムダだらけ?/透明なプラスチックの不透明な問題/リサイクルがかえってムダを生む?/水問題に潜むムダ
第Ⅱ部 ムダと経済
スマートフォンから生まれるムダ/ファッションの大量消費/
返品文化が消費行動を変える?/誰もが嫌悪する食品ロスの真実
第Ⅲ部 ムダの科学
CO²がどのように生まれ、悪影響を及ぼすのか?/
発電方法と電気使用から見るムダ/非効率な太陽エネルギーの使われ方
第Ⅳ部 ムダの哲学
お金のムダ/時間のムダ/発揮されない潜在能力/浪費される命

著訳者紹介

【著者】 
バイロン・リース(Byron Reese)
フューチャリスト、作家、シリアルアントレプレナー(連続起業家)。現在はJJケント社のCEO。既訳書に『人類の歴史とAIの未来』(古谷美央訳、ディスカヴァー・トゥエンティワン)が、また未邦訳の著書に『無限の進歩(Infinite Progress)』、『物語、サイコロ、考える岩石(Stories, Dice, and Rocks That Think)』、および『われらは超個体アゴラ(We Are AGORA)』がある。テクノロジーの未来に関する講演などでも活躍。テキサス州オースティン在住。

スコット・ホフマン(Scott Hoffman)
インターナショナル・リテラリー・プロパティーズ社CEO。同社は版権とキャッシュフローを取得する会社であり、ホフマンは1,000以上のタイトルポートフォリオを所有・管理している。フォリオ・リテラリー・マネジメント社の共同創業者のひとりでもある。ウィリアム・アンド・メアリー大学で文学士号を、ニューヨーク大学スターン経営大学院で経営修士号をそれぞれ取得。テキサス州オースティン郊外在住。

【訳者】 
梶山あゆみ(かじやま あゆみ)
翻訳者。東京都立大学人文学部英文学科卒。訳書に、ビバードーフ『さぁ、化学に目覚めよう』(山と溪谷社)、ヘラップ『アルツハイマー病研究、失敗の構造』(みすず書房)、イーグルマン『脳の地図を書き換える』(早川書房)、ハラリほか『漫画 サピエンス全史 歴史の覇者編』(河出書房新社)、シンクレアほか『LIFESPAN』(東洋経済新報社)など多数。

『この世からすべての「ムダ」が消えたなら』白揚社紹介ページ


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