白揚社だよりvol.21 科学読み物研究家・鈴木裕也の書評で読む『Remember記憶の科学』
一般向けポピュラーサイエンス読み物を読み漁り、書評を書くライター・鈴木裕也さんが選んだ、イチオシの本を紹介するコーナーです
(白揚社の書籍に挟んでいる「白揚社だよりvol.21」からの転載)
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物忘れへの不安や悩みの解消へ――
記憶の仕組みと弱点を知るガイドブック
10年ほど前、かなり進行したアルツハイマー病に侵されていた父親を看取った。その経験は、私を物忘れ恐怖症に導いた。それほどひどい末期だったのだ。少なからず父親と同じ遺伝子を持つ身として、「自分はアルツハイマーになりやすい体質なのではないか」「あんな姿にはなりたくない」という思いから、いまだに逃れられずにいる。なので、日常で小さな物忘れを経験するたびに、恐怖が襲ってくるのである。
そんな私を本書は救ってくれた。読み進めるほどに、自分が恐れていた物忘れがいかに当たり前のことで、しかもその多くが記憶障害ですらないことがはっきり理解できたからだ。さっき名刺を交換したばかりで今自分の目の前にいる人の名前が思い出せない、何を探しにキッチンまで来たのか忘れてしまう、知っているはずの女優の名前が出てこない……記憶の仕組みや記憶の種類などを、具体例を交えながらわかりやすく説明してくれるおかげで、これらの物忘れ現象がアルツハイマーの前兆でも何でもないことがよ~くわかった(きっと、本書で読んだこの説明は忘れないだろう)。
たとえば、つい数日前に紹介された人の名前を思い出せないのは記憶障害ではないと著者は言う。人は注意を払ったことしか記憶できないので、その人の名前に注意を払わなければ、そもそも記憶が作られることもないのだそうだ。テレビで見た女優の名前が喉元まで出ているのに思い出せないのも心配ないという。これは「舌先現象」というもっとも一般的な想起の失敗にすぎず、アルツハイマーとは無関係だという。しかも、加齢とともに、脳に格納された記憶を取り出しにくくなるもの自然の現象だと、とても丁寧に説明してくれる。読み進めるたびに、私の不安は解消されていった。
書き換えられて変わってしまう思い出
しかし、別の不安も生まれた。本書によると、自分が体験したことの記憶=エピソード記憶はかなりいい加減なものだという。過去の記憶は、思い返すたびに書き換えられ、それが上書きされてしまうためだ。実例を挙げると、米国では2019年9月の段階で、有罪判決を受けながらDNA鑑定によって無実であることが判明した人が365人いた。そのうち4分の3の人は目撃証言によって有罪と宣告されていたという。いかに自分が信じた記憶が覚束ないものかがよくわかった。ただ、それが事実なら、私が大切に記憶している初恋の女性との甘酸っぱい記憶は、もしかしたら私が勝手に作り上げた思い込みかもしれないのだ。
安心したり、不安になったりしながら読み進めていった私に、著者はとっておきの安心材料を提供してくれた。忘却は人間に生まれつき備わっている「初期設定」だという。例えば、よく行くショッピングセンターの駐車場に停めた車に戻るとき、以前に停めた駐車場所を思い出してしまったら、その記憶は邪魔になってしまう。つまり、忘れることで新しく覚えておきたい記憶の保持や想起が容易になるのだ。
記憶の仕組みという難しい内容にもかかわらず、軽快に読み進められるうえ、理解もしやすかったのは、おそらく作家でもある著者の文章力の賜物だろう。専門用語を極力排し、事例を中心に平易な文章で書かれた本書は、誰にとっても読みやすいはずだ。
最終章では「記憶のためにできること」と題された、12項目のアドバイスが列記されている。そこを読んだ私は、すでに自分の物忘れ恐怖症が消えていることが自覚できるほどになっていた。(鈴木裕也・科学読み物研究家)
白揚社だよりVol.11
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