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『イギリス花粉学者の科学捜査ファイル』試し読み

10/5(水)発売の白揚社新刊『イギリス花粉学者の科学捜査ファイル――自然が明かす犯罪の真相』より、冒頭部分の試し読みをお届けします。

経験豊富な花粉学者、パトリシア・ウィルトシャー。たまたま警察の捜査に協力することになった彼女は、試行錯誤しながら、花粉や胞子、菌類、微生物、土など自然の痕跡を利用して事件解決に導く「法生態学」という画期的な分野を編み出していきます。

死体や衣服、車に残された目には見えないほど小さな花粉を手がかりにして、どうやって殺害場所や時刻を特定するのか? どのようにして消えた死体のありかを発見し、犯人の嘘を見破るのか?  
数々の難事件の真相究明に貢献したイギリス法生態学のパイオニアが、波瀾万丈の人生と科学捜査の奥深い世界を語り尽くします。

お届けするのは、本書の冒頭部分の抜粋です。

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 少しのあいだ、真冬の森を散策している自分を想像してほしい。柔らかな地面を心地よく踏みしめながら歩いていると、ふと、何かが目にとまった。人がよく通る小道から少しはずれた窪地に、どこか場違いな、なんだか不自然なものを感じたのだ。森にはイヌの散歩に来ている(物語のはじまりと
して、おなじみの場面だろう)。そのとき、イヌが急に走り出したかと思うと藪の中に潜り込み、クンクン臭いを嗅ぎはじめたではないか。大あわてであとを追い、イバラをかき分け、かき分け、ようやくイヌのいる場所にたどり着いたとき、胸騒ぎはさらに大きくなった……そして窪地を見下ろした瞬間、その理由をはっきりと思い知る。イヌが夢中で土を掘り返している目の前の地面から突き出しているのは……生気のない人間の手……黒々とした土を背景に、青白い手がくっきりと浮かび上がっていた。

 こうした犯罪で、目撃者の証言または被疑者の自白以外に犯人を突き止める方法がなかった時代は、それほど遠い昔ではない。犠牲者の身元や参考人とのつながりを示す手がかりが何もなく、ぞんざいに埋められていた死体が永遠に謎に包まれたままで終わった事件が記憶にある人もいるだろう。だが
時代は進み、今や科学捜査の進歩は加速度を増すばかりだ。

 指紋については誰もがよく知っていて、先史時代の土器にも見つかっている。古代中国およびアッシリアの人々は指紋を用いて粘土工芸品の所有権を示し、のちには文書の持ち主を明らかにしていた。1858年には英国のインド行政官だったウィリアム・ハーシェル卿が、契約書には署名とともに指紋も加えるべきだと主張した。指紋分析の方法は19世紀の後半までに確立され、1882年にはフランスのアルフォンス・ベルティヨンが人間一人ひとりの違いに関する学術的研究の一環として、日常的に指紋をカードに記録した。さらに1891年までにアルゼンチンの警察が犯罪者の指紋採取を開始している。この分野は急速に発展し、1911年、個人を特定する信頼できる方法として米国の法廷で指紋法が認められるようになった。時代を早送りすると、1980年には英米両国ではじめてコンピューター化された指紋データベース、NAFIS(全国自動指紋識別システム)が確立された。

 1990年代になると科学捜査はさらにめざましい発展をとげ、DNA型鑑定法が生まれた。それまでの指紋と同様に一人ひとりの異なった痕跡をとらえることができるが、今度は血液、精液、体細胞、または毛根を試料として用いる。この技術の開発によって科学捜査の世界は大きな変貌をとげ、冒頭の冬の森で見つかった死体のような身元不明の犠牲者がどこの誰かを突き止めたり、事件現場と特定の人物とを結びつけたりすることが、はるかに容易になったのだった。間違いなく、これら二つの技術は科学捜査の歴史上で途方もなく重要なものだ。こうした技術がなければ野放しになっていたかもしれない殺人犯が、その進歩のおかげで刑務所に送られてきた。そのままにすれば同じ罪を繰り返したかもしれない婦女暴行犯が逮捕され、有罪判決を受けている。一歩間違えれば不当に告発されていたかもしれない人も、無実の罪を晴らしてきた。その途上でさまざまな後戻りを経験しながらも、犯罪捜査は一歩ずつ、真実へと近づいてきたわけだ。

 ただし事件現場では必ず指紋が見つかるというわけではなく、なかでも犯人が科学捜査の可能性を考えて手袋をしたり、証拠を残さないように注意しながら立ち去ったりすれば、なおさら指紋の発見は難しくなる。DNAの証拠も同様で、多くの人が思っているほど全能でもなければ、必ず発見できるものでもない。事件現場に犯人の痕跡がまったく残されておらず、毛髪も血液も精液も、そのほかのどんな体液も組織も採取できなかったために、加害者の遺伝子分析など不可能なこともある。

 でも……人と場所とを結びつけ、無実の人の潔白を証明し、誰かの有罪を指摘できるような、また別の方法があったらどうだろう? 指紋とDNAによる証拠に加えて、事件のある一面を裏づけられる別の痕跡が残されているとしたら? しかも、あまりにも広く残されているために、犯人がどれだけ科学捜査の方法に詳しくても、けっして取り除くことができないものだとしたら?

 もう一度、冒頭に登場した冬の森の事件現場に戻って、その場面を想像してみよう。イヌが盛んに土を掘り返している場所に近づこうとして、行く手に立ちはだかるイバラ、頭上から垂れた木の枝をかき分けながら進めば、知らず知らずのうちに上着の袖がオークの幹に触れるだろう。そのとき、樹皮の窪みに埋まっていた目に見えないほど微細な胞子と花粉が袖に付着する。さらに斜面をすべるように下りていくと、履いている靴はあたりの土や泥で汚れる。そうした汚れには周辺の樹林から地面に降り注いだ花粉と胞子が、最近のものだけでなく過ぎた季節に落ちたものも含めて、閉じ込められている。その場の土の中で暮らしている数多くの生き物や、かつてそこで暮らしたものの死骸のかけらも、いっしょに靴につくだろう。

 目に入ったものをもっと詳しく見ようとして身をかがめれば、死体の上に張り出している枝と葉に髪が触れて、その表面に降り積もっていた花粉、胞子、そのほかの微細な物質を集めることになる。自分がその場所に残した痕跡――土を踏んだときの足跡、落とした髪の毛や衣服の繊維など――は、すぐ目立たなくなってしまうかもしれない。あるいは見過ごされてしまうかもしれない。でもその逆に、場所のほうがあなたに刻みつけた痕跡はどうだろう? 顕微鏡でしか見えないこうしたわずかな痕跡を誰かが回収して確かめ、体や衣服に残された痕跡から自分がいた場所を、あるいはもっとずっと遠く離れた別の場所を、目に浮かぶように再現できるとしたら?

 さて、自分が殺人犯だと想像してみてほしい。手にかけた相手を遺棄してきた場所は、いったいどんな痕跡をあなたに残し、そしてあなたはどんな痕跡を、それとは知らずに行く先々へと持ち歩くのだろうか?

 そこで私の出番だ。私自身の生きてきた道と犯罪科学捜査の歴史とが、ここでピタッと噛み合う。1994年、ユニバーシティー・カレッジ・ロンドンの環境考古学者だった私に、一大転機が訪れた。

 私が正式に植物の世界の研究をはじめたのは50年近く前の話だが、実際のところ、私が自然界に夢中になったのはそれよりはるか昔のことだった。子どものころから、自然界について書いた本をどれだけ読んでも、いつももっと知りたいと思った。知りたいことはつねに大量にあって、それは今でも変わらない。いつまでたっても頂上にたどり着けないのは、もどかしいことではある。でも、たどり着ける者は誰一人としていない。登り道は険しく、永遠に続く。

 私は仕事に費やした時間の大半を顕微鏡の前で過ごしてきた。没頭したのは、次から次へと異なる試料を調べながら、花粉と胞子の混じり合ったものの正体を見極める作業だ。微細な花粉粒と菌類(真菌類)の胞子を含んだ試料をまず赤く染色してからゼリーに埋め込み、さらにスライドグラス上に薄く広げて顕微鏡にセットする。何も知らない人が覗いたなら、ただ形の異なる染みと斑点が混じり合った寄せ集めにしか見えないかもしれない。だが、花粉と胞子を研究している花粉学者にとって、それらは多様で幅広い自然界から拾い上げた要素の集まりだ。

 高倍率の顕微鏡のレンズを通して花粉粒を見たとき、目の前に現れた極小世界の不思議で複雑な美しさに、思わず感嘆の声を上げない人はほとんどいない。小さい孔がいくつも並んだ球形の花粉粒もあれば、ダンベルに似た形の花粉の表面に、細い切れ目がグラデーションになってついているものもある。表面の孔や溝は大きさや形がさまざまに異なり、種類も組み合わせも変化に富んでいるし、花粉粒の外壁にも、全体を覆っている渦状の複雑な隆起、縞模様や皺、網目模様に並んだ小さな柱などが見える。ごく単純な塊があるかと思うと、その塊にびっしりとトゲが並んでいたり、そのトゲにまたトゲがついていたりする。形状と凹凸の単純さや複雑さを見て、私たちは針葉樹の雄花または顕花植物の葯が生み出したこれらの小さな粒を識別し、分類することができる。

 種の存続に欠かすことのできないこれら極小の、たいていはとても美しいかけらを目にすれば、誰もがきっと驚くだろう。うっとりして、夢見がちな空想をめぐらすかもしれない。だが、ロマンチストである夫がいつも残念がっていることに、私はかなり実利的かつ現実的だ。目に入ったものを「あるがままに見ること」を誇りとし、見るものの解釈にいかなる認知バイアスも入り込ませないようにしている。私にとっての花粉粒は、職業柄、単に植物や菌類の生活環における一段階ではないからだ。それらは、私が警察の仕事の一環として解明していく物語の基盤になる。ある人物が自分はそこにいたと主張した場所に実際はいなかったことを教えてくれる、まぎれもない「標識」になる。相手が嘘をついている、または真実をねじ曲げていることを伝える「ささやき声」にもなる。誰が、何を、どこで、どのようにして、という筋の通った説明をするための、縦横の織り糸になるのだ。犯罪が起きたあと、私は収集された花粉粒、菌類、地衣類、微生物が物語っている可能性を読み取ってまとめ上げ、自然界が教えてくれる事実のかけらをつなぎあわせて、全貌を明らかにしようと力を尽くす。

 私はこれまで自分のことを「パズルを解くプロ」だと説明しており、この喩えはなかなか的を射ていると思う。この仕事では正確さがとても重要になるわけだが、花粉粒や胞子をそれぞれ見分けて確認するのは、時としてひどく骨の折れる仕事だ。つねに正確であることを目指し、少しでもあやふやな部分があれば、正しく同定されている植物の標準物質を利用することが必要不可欠になる。もし間違えば、不当に誰かの自由を奪ったり誰かに自由を与えたりしてしまうかもしれない。私は花粉の一粒一粒を区別しようと悪戦苦闘しながら、人生の長い時間を極小の世界の研究に費やしてきた。それは、「単純」とはかけ離れた作業なのだ。

 バラ科のように古くからある科の植物の場合、花粉粒には必ず三つの溝と三つの孔がついていて、表面に筋状の渦巻き模様が見える。一つの種の模様が少しだけ変化したものが別の種の模様になっていることもあるから、イバラ、バラ、サンザシの花粉を確実に見分けるのは難しい。一方これらは、スピノサスモモ、プラム、チェリーを含むグループとは簡単に見分けがつく。このグループの場合は筋状の渦巻き模様が、よりはっきりしていて見えやすい。それでも犯行現場がチェリーの果樹園だったとして、顕微鏡で覗いている花粉が確実にチェリーの木のものだと断言することはできないだろう。チェリーと、たとえばスピノサスモモとを区別する差異は、ほとんどないからだ。コケのような「下等」植物の胞子の場合には、それぞれを見分けられる決定的な特徴はさらに少ない。コケよりあとに進化したシダなどの植物なら、区別できる特徴はコケよりも多いが、針葉樹よりは少ない。同様に、針葉樹の花粉の特徴は顕花植物のものより少ない。これはほとんど無限の可能性を含んだややこしい世界だが、それでも私たちはなんとかして解決法を見出さなければならない。

 今、この本を読んでいる人は、おそらく私と同じ仕事をしている人物に出会ったことはないと思う。いや、おそらくそんな職業の話を聞いたこともないだろう。40年前には、この仕事は存在しなかった。世界のほとんどの国では今もまだ存在していない。私はときに別の名前で呼ばれることもあるが
(思い浮かぶあだ名の一つは、死体の鼻腔から花粉粒を入手する手法を私が開発したことで生まれた「スノットレディー(鼻クソ女史)」!)、自分のことを何よりもまず「法生態学者」だと思っている。犯罪を解決する刑事の仕事を手助けするために、自然界のさまざまな特徴を活用して分析する専門家だ。林間の浅い穴に埋められた死体、郊外の家の石炭庫でミイラ化した死体、あるいは沼沢地の川から引き上げられた死体が見つかると、私は現場で自然環境を丹念に調べ、それぞれの運命の日に何が起きたかの手がかりをつかむよう求められる。一方、犯人が殺人を自白したのに死体が見つからない
場合には、犯人の衣服、靴、持ち物、車に自然界が残した痕跡を確認し、被害者が埋められている場所、あるいはほとんど隠そうとした跡もなくただぞんざいに捨てられている場所を割り出すのが、私の任務だ。さらに暴力事件や性的暴行事件が起きれば、花粉、菌類の胞子、土、微生物といった自然のまぎれもない痕跡を丹念に調べ、被害者または容疑者が実際にいた場所を特定することで、無罪か有罪かを判断する道筋をつけるよう依頼される。容疑者が有罪かどうかを見極める警察の活動を助けるために動植物の科学を利用しようと考えたのは、私がはじめてではないが、1994年の忘れられないある一日から、それが私の一生の仕事になった。私はここ英国の地で、この分野を先導しながら、さらに新しい方向へと拡大させるとともに、後輩のために最良の実践法となるようなプロトコル作りに励んでいる。

 これが私の守備範囲だ。私は犯罪と自然界が影響し合う境界上で仕事をしている。

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本書の紹介ページ

【目次】
第1章 開幕
第2章 探す、そして見つける
第3章 過去の代理
第4章 表面からは見えない場所
第5章 対立、そして解決
第6章 「あなたはその場所にいましたね」
第7章 クモの巣
第8章 死に潜む美
第9章 敵と味方
第10章 最後のひと息
第11章 「空っぽの器」
第12章 毒
第13章 痕跡
第14章 終幕

【著訳者紹介】
パトリシア・ウィルトシャー
法生態学者、花粉学者、植物学者、環境考古学者。イギリスで25年以上にわたって警察に協力し、数々の難事件の真相究明に貢献する。英国法科学会、王立生物学会、リンネ協会フェロー。世界各地の学会で講演する一方、大学での指導や研究に精力的に取り組んでいる。

西田美緒子
翻訳家。津田塾大学英文学科卒業。訳書に『プリンストン大学教授が教える “数字”に強くなるレッスン14』(白揚社)、『世界一素朴な質問、宇宙一美しい答え』(河出書房新社)、『なんでも「はじめて」大全』(東洋経済新報社)、『太陽の支配』(築地書館)など多数。


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