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【試し読み】『引き算思考』問題解決の最良の方法は「引き算すること」にあった!

8月19日発売予定の『引き算思考:「減らす」「削る」「やめる」がブレイクスルーを起こす』の試し読みをお届けします。

著者はバージニア大学の工学部・建築学部で教鞭を執るライディ・クロッツ教授。
本書でクロッツは、なぜ私たちは何かを変えようとするとき「足すこと」ばかり考えがちで「引くこと」を思いつかないのか、という自身が長年抱えていた疑問を深掘りします。
そして「引き算」を活かすことで、実生活やビジネス、人間関係や社会の問題に直面したとき有益な効果を得るにはどうすればよいか、という実践的なアプローチにまで踏み込みます。

著者が「引き算思考」にいたった経緯、そしていかに「引き算」が無視されているかを明らかにした実験の様子を描いた、序章と1章をお楽しみください。

引き算思考:「減らす」「削る」「やめる」がブレイクスルーを起こす

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引き算という行動

 この本は、私が長年抱いてきた、「レス(less)」――より少なく、より簡素に――へのこだわりをかたちにしたものだ。少なくとも10代のころから、私はずっとあれこれ考えてきた。誰にとっても得にならないものごとを捨て去れない傾向が世界に広くはびこっているように見えるのは、どうしてなのだろう。当時、私の夏休み中の仕事といえば芝刈りで、そのあいだに考え事をする時間がたっぷりあったから、しばしば芝生についても考えた。僕が芝刈りをするときしか使われていないように見えるこの芝生の必要性って、いったいなんなのだろうか。

 芝刈り少年を卒業してから20年経って、私はいま、息子のエズラと遊んでいるあいだに引き算について考える。私がこの年齢だったころにくらべると、息子はずっと多くの本やレゴを持っていて、気を散らすものにもずっと多く囲まれているのではないか。まとまった文章を紡ぐことはまだ全然できていないのに、どうして息子はもう動作やらおもちゃやらを組み立てること、足し合わせること、積み重ねることはできるようになっているのだろう。

 芝刈りをしていた時分から未就学児の分析をしている現在にいたるまで、私の頭から引き算についての考えが消えたことはない。どうして人間はこんなに引き算が苦手なのだろう。引き算すれば得になることがたっぷりありそうなものなのに。大学時代、私は土木工学を専攻していた。建物や橋を作ることを主眼とするこの学問は、エズラがしているブロック遊びの専門バージョンだ。皮肉なもので、物理的な基盤設備を構築していく足し算の科学を徹底的に学んだ結果として、私は心理的な引き算の価値を知るにいたったのである。
(……)

 私が本格的に「レス」について考えるようになったのは教授になってからだ。お金をもらって自由に考え事ができるだなんて、例の芝刈り以来だった。しかもいまや、私は「レス」について有益な考え事ができるだけの新しいツールをいくつか手にしていた。

 ほかの多くの教授と同様、私も知識を創造し、共有することに(そしてときにはそれを引き算することに)喜んで仕事人生を捧げている。しかし、ほかの多くの教授とは違って、私はどちらかというと単一の専門分野に縛られていない。公式には、私は工学と建築学と経営学の専門家ということになるのだが、親しい共同研究者の多くは行動科学者と呼ばれる人たちだ。このように複数の学問分野にまたがる仕事をしていると、予定表から削らなくてはならない会議も多いし、受信トレイからふるい落とさなくてはならないメールも増える。だが、そうした不便さも、これから本書で紹介する考えや研究の独特なネットワークの貴重さを思えば微々たる代償だ。

 よその学問分野にお邪魔させてもらったおかげで、引き算についての私の考えは大いに磨かれた。芝生を刈りながらの考え事は、当然ながら私の頭の中で考えたことでしかなかったが、それがこの10年のあいだに磨かれて、エビデンスに成長した。これをできるだけ多くの人に伝えたくてたまらないし、そうすることが義務だとも感じている。

 そのエビデンスを詳しく検討する前に、本書のめざす最終的な目標をあらかじめ確認しておいたほうがいいだろう。以下に、私の考えを深化させた概念的な区別について述べておく。私が数千時間かけて模索してきたことを、みなさんのためにぎゅっと凝縮して二つのパラグラフにまとめよう。

 私にとっての一大転機は、自分の関心の主体が「レス・イズ・モア」(少ないほど豊かであるのシンプルさでも、エレガントさでもなかったのだとわかったことだった。「引き算する」のは行動で、「レス」は最終状態だ。引き算した結果として少なくなることもままあるが、何もしない結果として少なくなっていることもある。この二種類の「レス」のあいだには天と地ほどの開きがあり、一方よりもずっと稀有で、ずっと得るところの多い「レス」にいたれるのは引き算をしたときなのである。
(……)

レゴの橋

「レス」について考えていた私に啓示が訪れたのは、息子のエズラとレゴで橋を組み立てていたときだった。二つの橋脚の高さが違っていたため橋を架けられなかったので、私は低いほうの橋脚に高さを足すため追加のブロックを取ろうと後ろを振り向いた。振り返ってできかけの橋に目を戻すと、3歳のエズラが高いほうの橋脚からブロックを一つ取り外していた。その瞬間、私は自分が間違っていたことに気づいた。私はとっさに低いほうの橋脚にブロックを足すことを考えたのだが、高いほうの橋脚から引くほうが、早く、効率的に、水平な橋を架けられるのだ。

 教授になってからというもの、私は前々から抱いていた「レス」への関心を、ただ思いめぐらすだけでなく研究できるものに発展させられないかと考えてきた。もともと私はエネルギーをなるべく使わない、したがって気候変動を助長する温室効果ガスの排出量も少なくて済む建物や都市を研究していた。建築と都市設計を研究し、それを使う人と設計する人についても研究した。やがて設計者に着目してみて気がついたのが、設計者というのはたとえ最適解につながらない場合でも、なるべくめんどくさくない道を選んでしまうものだということだった。意味のない数字にもとづいて、規定の選択肢をそのまま採用し、漫然と前例に流されてしまうのだ。それでも当時の私がやっていたのはあくまでも建物と都市についての研究であり、「レス」そのものについて研究するにはいたらなかった。

 しかし自宅のリビングルームでレゴを相手にするエズラのふるまいを見て、私は設計をそれまでの応用的な見方ではなく、もっと基本的なレベルで考えるようになった。足すことによっても引くことによっても変えられる比較的シンプルな状況が目の前にあった。そこでエズラがとった選択は私にとっては不意打ちであり、そのとき私は初めて気づいた――「レス」は最終状態で、「引く」がそこにいたるための行為であるのだと。

 エズラの橋の架け方は、私の意識を「レス」から「引く」に向けただけでなく、私の受けた啓示をしっかりと検証し、説得力をもって伝えられる方法を示してもくれた。そこで私は以後、エズラの橋のレプリカを持ち歩くようになった。そして何も知らない学生がやってくるたびに、この橋を完成させてみろと持ちかけて、エズラがやったように引こうとするか、はたまた私がやったように足そうとするかをチェックした。私が試した学生は、全員が足していた。

 私はレゴの橋を教授たちと会うときにも持ち込んだ。その相手の一人が、公共政策と心理学の分野で任用されていたゲイブリエル・アダムズだった。ゲイブと私は同じ時期にバージニア大学に採用された。私はこの職に、ある期待をかけていた。設計とは関係ない文脈で人間行動を研究している学者といっしょに働けるのではないかと思ったのだ。そしてゲイブは、社内政治、倫理違反、謝罪と赦しなどに関してすばらしい研究をしてきた、まさに私の希望にぴったりの人だった。彼女の実績に感銘を受けた私は――くどくどしい新人オリエンテーションと夜行性の幼児にぐったりしていた彼女に共感を覚えたこともあって――つねづねゲイブに何かいっしょに仕事ができないかと持ちかけていた。
(……)

 彼女の頭のよさと、これまで二人でしてきた「レス」についての会話にかんがみて、ゲイブにこの橋の実験の目的を見透かされるかもしれないとは思っていた。しかし彼女もほかの人たちや、私自身と同じだった。低いほうの橋脚にブロックを足して橋を架けたのだ。

 私は勢い込んで、エズラがこの状況でブロックを取り外した話をゲイブに伝えた。すると彼女は、即座にぴんときたようだった。彼女の返事を聞いて、私はこれぞ求めていた説明方法だと思った。これで無数の人びとにわからせられる。これでもうみんな芝刈り機を押しながらぐるぐる歩きまわらなくてよく、幼児とのレゴ遊びに長い時間を費やす必要もない。彼女はこう言った。「ああ、つまり、ものごとを変える方法として引き算があるのを私たちは無視しているんじゃないかってこと?」
 そう、そのとおりなんだ、と私には思えた。

引き算の実験

 私が問いかけたことの意味を理解したとたん、ゲイブはすっかり乗り気になり、同じく心理学と公共政策を専門とする教授のベンジャミン・コンヴァースを口説き落として仲間に加えた。最終的にはなぜ人が引き算をフルに活用しないのかを研究することになるとわかっていたゲイブは、人間の判断や意思決定に関する基本的な思考過程に詳しいベンの専門知識が必要になると考えたのだ。
(……)

 ベンとゲイブとの研究の第一弾として、まずはレゴを使ってみた。研究助手に大学の構内で通りすがりの人をつかまえてもらい、志望者が見つかったら実験エリアまでご足労願う。そこの小さなデスクにレゴの構造物が載っていて、脇に予備のブロックの山が用意されている。被験者には、縦八列、横八列の平らな土台の上に組み立てられた8個か10個のレゴブロックの構造物に取り組んでもらった。

 被験者はその構造を好きなように変え、終わったらそれを研究助手に返す。研究助手は、足されたブロック、引かれたブロック、動かされたブロックの総数を数える。その結果、もとの構造物よりブロックの数が少なくなっていたのは、全体のわずか12パーセントにとどまっていた。

 とはいえ、この結果はレゴに限ったことだったかもしれない。これを見るかぎり、やはり引き算はあまり使われないようだが、それは別の状況においても同じなのだろうか。この行動傾向が止まる場合があるとすれば、それはどういう場合なのだろう。

 そこでつぎは、音符のランダムな並びを変えてもらう実験をした。ここでも被験者は、音符を取り去るよりも約3倍の割合で音符を付け足した。この3対1の割合は、文章を推敲してもらう課題で実験したときもほぼ同じだった。さらに私たちは、五種類の具材からなるスープの中身を変更するという実験もした。具材を減らしたのは、90人中2人という結果だった。

 だが、まだ確定はできない。私たちはひょっとして、引き算をしにくくさせるような状況を作ってはいなかっただろうか。たとえば文章の書き換え実験なら、最初に用意しておいたサンプル文章に重要な情報が欠けていたために、どうしても追加が必要だったのかもしれない。自分たちが故意に引き算をさせにくくするような小細工をしていないのは重々承知でも、心理学者とつきあっているうちに、私は自分の潜在意識にいささか信用が置けなくなっていた。

 足し算を不用意に助長してはいないことを確信できるようにする一つの方法は、これらの状況の設定を私たち以外に任せることだ。私たちは再度レゴの実験を試したが、今回は、最初に提示するレゴの構造物をランダム化したプロセスで組み立ててあった。結果、60人の被験者のうち引き算をしたのは一人だけだった。もとのレゴ構造を別の被験者に独自に作らせての実験もした。それでもその独自に作られた構造を改良するのに引き算を使ったのは5パーセントにすぎなかった。同じく文章問題でも、別の被験者群にもとの文章を作ってもらって、私たち実験者を条件設定から排除してみた。まず被験者たちにある記事の要約をさせ(リチャード三世の遺骨が駐車場の下から発見されたという話だった)、その要約をもとに、別の被験者群に推敲をさせたのだ。引き算を使って要約をさらに短くした被験者は、わずか14パーセントという結果だった。

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本書の目次

序章 別の変化のありかた

第1部 世界にあふれる足し算
第1章 引き算の見落とし――レゴから実験室へ、そしてさらにその先へ
第2章 足し算本能――「モア」の生物学的背景
第3章 神殿と都市――足し算が文明を生み、文明が足し算を呼ぶ
第4章  増やすが善――時間、お金、現代の足し算の福音

第2部 世界に広める引き算
第5章 気づいてもらえる「レス」――引き算を見つけて分かちあう
第6章 引き算の基準――「レス」を使って系を変える
第7章 「レス」が残せるもの――人新世での引き算とは
第8章 情報から知恵へ――引き算からの学び

まとめのようなもの

著訳者紹介

ライディ・クロッツ(Leidy Klotz)
バージニア大学教授。工学部・建築学部で教鞭を執る。行動科学と工学を組み合わせた学際的なアプローチで持続可能なシステムを研究している。
全米科学財団のINSPIRE プログラムなどで1000 万ドル以上の資金を獲得するなど、その研究は高く評価されている。米国のエネルギー省、国土安全保障省、国立衛生研究所などに協力し、政策立案者のアドバイザーも務めるほか、サイエンス誌、ネイチャー誌などに論文を発表。
スタンフォード大学をはじめ多くの大学で講演し、ウォールストリート・ジャーナル紙、ハーバード・ビジネスレビュー誌など多くの紙誌に寄稿している。

塩原通緒(しおばら・みちお)
翻訳家。立教大学文学部英米文学科卒業。訳書にランドール『ワープする宇宙』(NHK出版)、ピンカー『暴力の人類史』(共訳、青土社)、スノーデン『疫病の世界史』(共訳、明石書店)、クリスチャンセン&チェイター『言語はこうして生まれる』(新潮社)、アセモグル&ジョンソン『技術革新と不平等の1000 年史』(共訳、早川書房)、コーサート『UFO vs. 調査報道ジャーナリスト』(作品社)ほか多数。

『引き算思考』紹介ページ

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