【広告本読書録:109】それ、勝手な決めつけかもよ?
阿部広太郎 著 ディスカバー・トゥエンティワン 発行
その昔、コピーライターとして駆け出しだったころ。業界誌か雑誌か何かで糸井重里さんが語っていた言葉に、妙に惹かれたことがあります。
「人は言葉で縛られ、言葉で解放される」
当時はまだその意味がよくわかっていませんでした。やがて時が流れ、さまざまな経験を積むうちにそれなりにしんどいことも味わいます。でも、そのしんどいことのたいていが、言葉によるものでした。
ハードワークな会社で働いていても、その仕事が好きであれば、ハードワークそのものでは心は病まない。メンタルをやられるときはたいてい、誰かが発した言葉がトリガーになっているんです。
そういう、心がまいったときにふと思い出したのが「人は言葉で縛られ、言葉で解放される」でした。ぼくはようやくそのフレーズの意味を理解し、受け入れがたい言葉との距離を取る技術を身に着けると同時に、自分が人と接するときのルールにもしました。
同じころ、マネジメントのような仕事でもがいている時に、もうひとつの印象的な言葉と出会います。それが「事実はひとつ、解釈はふたつ」です。なるほどうまいこと言ったもんだなあ、と感心したものです。
そしてぼくは「人間は…」と「事実は…」のふたつのフレーズがうまく組み合わされれば、とてもいい生き方の指標になるんじゃないか、と思いました。それがもし、一冊の本になったら名著になるんだろうな、とも。
生き方の本でもあり、マネジメントの教科書でもある。もしかしなくても広告発想にも役立つだろうし、コピーライティングにも有効だろう。
そんな本が、今年、出版されました。
それが阿部広太郎さんの三冊目の書籍となる『それ、勝手な決めつけかもよ?だれかの正解に縛られない「解釈」の練習』です。
広告太郎にはかなわない
ここで話は一気におかしな方向へ行きます。かねてからぼくは博通という自分の名前をまさしく広告の申し子であることの証左、と喧伝してきました。なんたって博報堂の「博」に電通の「通」で「博通」ですから。
しかし、ここにとてつもないライバルがあらわれた。それが他でもない、阿部広太郎さんです。
阿部さんは広告会社(電通ですね)に入社が決まったとき、お母さんにこんな言葉を掛けられたといいます。
あんたの広の字はね、「広告」からとったのよ、
がんばりなさい。広告太郎なんだからね。
こ、広告太郎…!?業種・業態・業界そのものを名前に冠するなんてスケールがデカすぎる!!
急に自分の「大手代理店から一文字ずつ頂戴した」というエピソードが小さなものに感じられるようになりました。
ちなみに阿部さんには広太郎のほかに「新太郎」という候補もあったそうです。もし新太郎さんになっていたら、今ごろメーカーの新製品開発職として活躍されていたかもしれません。
ついでに自分も名前のルーツをたどることにしました。まさか親が本気で博報堂だの電通だの考えていたわきゃねえしな…と思いながら母親に連絡したら、なんと、ぼくはもともと「武蔵」という名前だったという驚愕の事実が判明。
ぼくを見た親戚の大叔父が「こんなよく泣く赤ん坊に武蔵とは笑止千万!今日からこの子の名は博通だ!」と勝手に変更したんですって。
広告ぜんぜん関係ないし。っていうかだいたい博通ってどういう意味?などなど比較的焦ったのですが、その衝撃もこの本を読んでいたおかげで最終的には受け止めることができました。いいのかそれで。
おじさんだってキズはつく
『それ、勝手な決めつけかもよ?』は4つの章で構成されています。
自分の名前、自分の仕事を俯瞰して、解釈を加えることでそれまで気づかなかった魅力をあぶりだそうという試みの第1章。
なかなかおもうがままにいかないことの多い「今」に対して積極的な受け身を取ろうと提案する第2章。
後悔をいかに意義のあるものに変えるかを説く第3章。
よりよい未来の自分をつくるためにも解釈の解像度を上げていくべしと背中を押してくれる第4章。
正しいかどうかはともかく、ぼくはそれぞれの章をこんなふうに解釈しました。
実はこの行為そのものが、すでにこの本に書かれていることの実践ではないか、とこれまた勝手に解釈しています。
誰かが決めた「正しい」「間違っている」という解釈に振り回されるのではなく、あくまで自分の心にしたがって、機嫌よく生きるための解釈を加える。
そう提唱するこの本、一見すると10代後半から20代、30代といった悩み多き若者に向けて書かれているようにうかがえます。
ですがぼくは、ぼくのように年季の入った中年、それこそ50代以上の人たちこそ、手にとりページをめくるべき一冊ではないかと思うのです。
おじさんやおばさんも、上手くいくことばかりではありません。むしろ上手くいかないことのほうが多い。得意だったことがいつの間にか時代遅れになっていることもある。ふたまわりも歳下の若手に生意気な口をきかれることもある。
おじさんだって、おばさんだって、傷つきます。おじさんだって、おばさんだって、凹むんです。
とくに仕事の面でつまづくと、なかなか立ち直れなかったりします。その仕事に誇りをもっていればいるほど、ちょっとしたことでネガティブなダークサイドに落ちていってしまう。
そして、おじさんやおばさんは困ったことに、なかなか頭が堅い。意固地になる。過去の自分の成功体験にしがみついてしまいがち。つい、周囲のさまざまなものに否定の矢印を向けてしまう。
そんなんだから、ますます事態はこじれてしまう。かくして不機嫌なおじさんやおばさんが生まれるんじゃないか、とぼくは思うのです。
だから、その凝り固まった自意識やつまらないプライドから自分を解放するために「解釈」を加える。新たな「解釈」を重ねる。
生きていればやむなくついてしまう「傷」ですが、ひとつひとつは小さくてもいくつも重なれば溝が深まり、やがて大きな穴になる。
そんな傷の手当てこそ、この本で阿部さんが提唱する「解釈」ではないか。
そんな風に思えました。
もちろん自分が足りないところや反省点はきちんと受け入れる。改善する。しかしそれにもエネルギーが必要で、うつむいた状態ではなかなか難しい。だからネガティブな状況を「解釈」によって整える。
そして機嫌よく、クライアントとも上司とも同僚とも若手とも渡り合う。これが50代以上の中年がこじらせ老害にならないためのメソッドではないかと思います。
自己啓発ではなく自己実践の書
ともすればこの手の書籍は自己啓発本のコーナーにおかれがちですが、阿部さんご自身はそうではない、とやんわり否定。「自己解釈本」として書いていくとおっしゃっています。
ぼくはさらに「自己実践本」という解釈もありなんじゃないか、と思いました。
たとえば第1章の「自分の仕事に名前をつける」。職種名がファーストインプレッションとなる求人広告を作る上で、非常に参考になる取組みです。
営業を営業といってしまっては、おもしろくもなんともない。
営業を多様な価値観の届け人と解釈し、言語化するから仕事の本質が見えてくるし、また魅力と輝きを放つ。
仕事なんか嫌だな、とか、転職しようかななんて悩んでいる人にぜひやってほしい取組みです。そうすることで辞めるのやめてもう一回がんばってみようかな、って思えたら最高じゃないですか。
目の前にある仕事に新たな解釈を加えて名前をつけてみる。これは採用コミュニケーションに関わる者なら取り組むべき試みだと思います。
あるいは第4章で紹介されている企業におけるミッションの策定。
ぼくの最近の仕事の約3割は企業のミッション・ビジョン・バリュー策定のお手伝いです。とはいえ専門知識があるわけでもないので、都度『ブランディングの教本』みたいな書籍に助けを求めることもしばしば。
ところが世にあまたあるその手の本の多くは、コピーライターではなくクリエイティブディレクターやブランディングプロデューサー、あるいはアートディレクターが書かれたものがほとんど。
理論や技術はすばらしいのですが、いざ市井で実践となるとやや容れ物が大きすぎるんですよね。
その点、現役コピーライターの阿部さんが紹介してくれるミッションづくりのメソッドは非常に手触り感があるというか、読んでいて「使える」感覚がひしひしと伝わってきます。
実際に今年、ある企業のインナーブランディングのお手伝いをしたときにいちばん役に立った参考書は阿部さんの前著『心をつかむ超言葉術』でした。どこかでお会いできたらお礼したいと思っています。
だそく
実はこの感想文を書くまでに、ものすごく時間がかかってしまいました。また、何度も何度も書き直しました。
最初に読んだ時、ふたたびページをめくった時、みたび手にとった時。その時々のコンディションによって、この本に書いてある内容の感じ方や捉え方が変わっていったからです。
だから、この感想文も決して完成文ではありません。明日まったく違う感想を抱くかもしれない。
でも、それでいいのかな、とも思うようになりました。そして、本と人との関わり方は環境によって変わる、という解釈をすることにしました。
ということは以前、手にとった時にいまひとつだった本が、時間の経過によってものすごく重要な意味をなすこともある。逆もまたしかり。だから食わず嫌いや先入観を捨てて、さまざまな本と向き合ったほうがいい。
ただ、世界に流通するすべての本を読ことは、物理的にも不可能です。だからこそ、本との出会いも一期一会と捉えて、まずは書棚にある書籍を一冊ずつ再読する旅に出ることにしました。
せっかく買ったにもかかわらず、実は読んでみてあまり進まなかった、という積ん読の書が結構あります。本が好きな人なら同じ経験あるんじゃないでしょうか。
だけど「この本、買ったはいいけどあんまりおもしろくなかったんだよな」っていうのも『それ、勝手な決めつけかもよ?』ですから。