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【永久保存版】ヒトラーの生涯・人生を1年単位で紹介!これであなたもヒトラー博士?

「私が何歳の時、ヒトラーは何をしていたか?」という疑問に対して、今回はヒトラーの生涯を1年単位で紹介することにします。

ヒトラーの関係する年号は、言わずもがなWebや様々な本などで紹介されていますが、主要な年だけでまたその時ヒトラーは何歳だったのかというのがすぐに分かりません。その需要に応えるべく、ここではヒトラーが生まれて亡くなったとされる56歳まで1年単位で、それぞれの年に何があったのか、誰と出会ったのか、またヒトラーが考えていたこと、感情、影響されたことなどを取り上げました。自分が何歳の時に、ヒトラーは何をしていたかと知るのは、とても興味深いことですし、20世紀のドイツの歴史について詳しくなれるはずです。

内容については、ヒトラーの幼少期、青年期、第一次世界大戦、政界進出、首相就任、第二次世界大戦と分類し、紹介していきます。西暦、月日、満年齢、出来事としてまとめています。(ヒトラーの誕生日は4月20日だが、その年の満年齢として記載)

<参照・引用>
『青年ヒトラー』大澤武男(平凡社新書)
『アドルフ・ヒトラー1』著ジョン・トーランド、訳永井淳(集英社文庫)
『アドルフ・ヒトラー2』著ジョン・トーランド、訳永井淳(集英社文庫)
『アドルフ・ヒトラー3』著ジョン・トーランド、訳永井淳(集英社文庫)
『アドルフ・ヒトラー4』著ジョン・トーランド、訳永井淳(集英社文庫)
『ヒトラーとロンギヌスの槍』著ハワード・A・ビューグナー、ヴィルヘルム・ベルンハルト、訳並木伸一郎(角川春樹事務所)

🔸ヒトラーの幼少期

1889年 4月20日 0歳 オーストリアのブラウナウ・アム・イン(ドイツとオーストリアの国境にある街)に父アロイス、母クララ(アロイスの三番目の妻)の第三子として誕生。既に2人の子供を亡くしていた母クララは心配していたが、ヒトラーは健康そのもので、よく育った元気の良い子どもだった。

赤ん坊の時のヒトラー。
左から父アロイス、母クララ。厳しい父アロイスの一方で、母クララからはたくさんの愛情を受けて育った。

1890年 1歳 3月 ビスマルクが辞任
1891年 2歳 フランスのジョゼフ・アルテュール・ド・ゴビノー伯爵の『諸人種の相違について』(白人至上主義を提唱し、アーリア人を支配人種と位置づけたことで知られる)が独訳され支持され始める。
1892年 3歳  父アロイスの昇進に伴い一家で税関事務所のある大きな町パッサウ市へ転居する。(ヒトラーのバイエルン訛りはここから)弟オットーが誕生するも、生まれてすぐ死去。
1893年 4歳 パッサウでのんびりとした生活を過ごす。
1894年 5歳 父アロイスがオーストリア領内リンツ市へ赴任。ヒトラーと母クララは3月に生まれたばかりの弟エドムントとパッサウに留まる。
1895年 6月  6歳 フォルクスシューレに入学「頭の回転が早く従順で、活発な生徒」と評され小さなガキ大将となる。父アロイスはオーストリア帝国勢官吏を退官しランバッハ市の郊外ハーフェルトで農業を始める。
1896年 7歳 1月に妹パウラが誕生。異母兄アロイス2世が父アロイスとの口論を契機に14歳で家から家出、二度とヒトラー家には戻らなかった。
1897年 8歳  父アロイスの農業が失敗に終わりランバッハ市内にある屋敷に定住。ベネディクト修道会系の初等学校に転校(ヒトラーが毎日通る聖堂の彫刻の最も目立つところに鉤十字が使われていた)。成績優秀で最高評価を得る。教会の祭典の厳かな雰囲気に心酔し、聖職者になる夢を持つ。

ヒトラーが感動したラムバッハ大修道院の後部上方の美しい聖歌隊席。

1898年 9歳 リンツ近郊のレオンディングへ移住。
1899年 10歳 立派な家に住み成績優秀、弁舌の才能、最も自信に溢れる。小学校の卒業資格を取得。

最後列の1番背が高いのがヒトラー。

1900年 11歳 「苦痛を表さないのは勇気の印」と意志の強さを自分で試し、父アロイスからの鞭の叩く数を数えた。(その日からアロイスは二度と手を出さなくなった)自信に溢れクラスのリーダー、学力、絵の才能に溢れた。弟エドムントが死去し合計4人の子供を亡くし、男の子はヒトラーのみで父子の関係はますます悪化する。リンツへ移住。
1901年 12歳 成績が落ち、リンツ実科中等学校一年生の時に留年。自信がなくなり殻に籠るが、成績不良が自分の望む画家の道に進めると考える。オペラ・ハウスで、リヒャルト・ワーグナーの『ローエングリン』を初めて聴き、ゲルマン神話の英雄にたちまち虜になり、民族主義の衝動を得る。
1902年 13歳 父アロイスに対する戦術を変え、学力が上がり、再びクラスの人気者になる。自分が書いたボーア人のスケッチを見せ、ボーア軍隊に憧れる。ドイツ民族主義や大ドイツ主義に傾倒する。(ハプスブルク体制の支持者の父アロイスへの抵抗とも)
1903年 1月3日  14歳 父アロイスが65歳で病没(脳卒中)、その後一家の中心的存在になる。リンツ市内に下宿し夜遅くまで起きて読書と絵に費やす。フランス語試験に失敗し追試験で合格するも4年生への進級を認めてもらう代わりに工業学校を退校処分。
1904年 15歳 リンツ近郊シュタイアー市の中等学校(レアルシューレ)に再入学、田舎の学校へ転校させられたことから一層学校を受けなくなる。11月1日にアウグスト・クビツェクとリンツのオペラの安い立ち見席で出会いすぐに意気投合、親友になる。

アウグスト・クビツェク。ヒトラーが「du」(ドイツ語で親しい間柄で使われる二人称)で呼ぶ数少ない友人。

🔸ヒトラーの青年期

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