私は石ころみたいな写真が撮りたい。
私がつくるものに向かうとき、それは自分の感覚(感情よりも先だったもの)であったり、外側からの刺激に応じたものであったり、自分の感情の発露であったりするのだけれど、
私を動かすものの大きな一つを、今日言葉にできた。何故かはわからない。ただの思い込みだと言われればそうかもしれない。誰にも白い目で見られてもまあ仕方ないと思う。使い古された考えでもいい、自分から出てきたものに生まれてくれた、ありがとうを言う。
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誰もが、みんなが、すごいねとかいいねとか思う写真を撮りたいわけではなくて、誰しもが目にしているもの――
子どもの頃、道端に落ちているなんかいい感じの石ころを集めていた——
あの「石ころ」みたいな、なんかいいな、いいよねが通じるような
写真が撮りたいのだ。
(手帳のメモより)
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Twitterに書くにも、noteに書くにも、どちらにも中途半端な内容だった。自分の個人ブログがあった。そこに書き捨てて終わろうと思った。けれど書いていたら、だんだんと言葉は繋がっていった。だから、ここにも記録しておく。
今日なぜかことばに、形になってくれたものだ。私の撮る写真、撮りたい写真がそんなきらきらとしたものでもなく、ソリッドでかっこいいものでもないことは明白だったけれど、ただ退屈な、何を撮っているのかわからないものだということはわかっていた。けれどそれを言葉にして、こういう写真なんですと説明ができなかった。白い目を向けられても、言い返すすべはなかった。ただ、私は私の写真が好きで、それを変えることはない。言い表す言葉はきっとなにかあるのだろう、いくつもあるのだろう、けれどそれをうまくまとめることができなかった。自分でそれをしたかった。
それが今日、なぜかことばになってくれた。
私は石ころみたいな写真が撮りたい。
今日ふと通勤中の朝日の中を歩いていて、そうだ、石ころだ、石といっても、子供心に魅かれる石はいろんなものがある。つるつるとまるいもの、ごつごつとしたもの、一部に透き通るものを含んだもの、不思議なカーブを描いたもの、それこそ、こうして挙げきれないくらいいろんな石がある。けれど、大多数の人間にとって、決してその子供心の感動は等しく通じはしない。「ただの石ころ」だから。
けれど私が撮る写真、写真を撮る行為はそれに近しいものだということに気づいたのだった。子供心の感動。
全ての対象を石ころだと言い放つわけではない。けれど、私が私らしい写真を撮るとき、それはなんだかわたしの宝物をになりそうな石ころを見つけたこころもちで、シャッターを切っているに違いないのだった。(私が写真を撮る瞬間のうちのひとつのパターンとしてだ)
自分の写真として形作る美意識や美的感覚の話とはまた別に、また、その対象を愛おしく美しく、あるいは子供心の突然の発現として、それに着目しているのだろうと思う。
私の写真の撮り方の一端が、こういった思考や感性の動きと理解していただけると幸いです。