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居るべき不在・不在写真

こんばんは、薄明です。日に日に通勤路の街路樹などが赤く色づいていきます。今日もまた、なんだか書けば書くほどに何が言いたいのかわからなくなっています。楽しい自分と苦しい自分が激しくスイッチしながらの生活です。

先日、Twitterのハッシュタグで #イマジナリーポートレート というのを見かけて、発信元のMuraiさんの写真などを拝見しました。見て、あっ、これは私の言っている「居るべき不在」という写真に考え方が似ているかも、と思いました。私はうまくキーワード化できなかったのですが、全く同じ概念ではないにせよ、キャッチーな表現をできる人はやはりすごい。概念のデザインというか。

元のツイートよりも、まとめられたnoteの方が適当だろうと思いましたので、そちらを貼っておきます。

このハッシュタグがわーっとTwitterで流行しました。意外とみんな、こういう写真を撮っているんだなあという印象です。面白い写真がたくさんあるので、是非タグをたどってみてください。

ただ、自分の概念を他の人の定義にそのまま乗っけてしまうと、相手の定義からはみ出た部分が失礼かもしれないし、また自分も落ち着かないような気がしたので、一度この時点で自分の中にある概念を言語化してみようと思いました。書いてみたところで、読んだ人からすればどちらも同じかもしれない。でも別の人にとっては違うかもしれない。私にとっては違うかもしれない。今回はそういうお話です。(ですので、#イマジナリーポートレート をはじめとする、他の方の感覚や見解、作品の方向性について述べたものではありません。私ひとりの局地的な概念のおはなしです)

まずこういった写真に言及したのは、ちょっと前に載せたnoteです。

このnoteの最後の方で、こういう一文があります。

私の写真は基本的に多くは人物が除外されています。撮らないわけではありませんし、実際写っているものも多くあります。しかし私っぽい写真の多くは、人の居ない風景の写真というよりは、イメージとしているはずの人が居ない写真のように感じます。立ち去った後なのか、消滅なのか、幻像なのか?

自分の撮影時の感覚と、写真を見た時の感覚を時間軸に置きなおして考えると、ややこしいながらも、自分の感応がわかった気がしました。

「居るべき不在」、「不在写真」

撮るときに架空のモデルをイメージして撮っているか? というと、撮っていません。いないものを現実世界にレイヤーとして投影して見ることが、私の脳ではどうやら難しいようです。全くないわけではないですが、発生するのは稀で、自分でコントロールできません。ではいつ不在を感じるのか。それは撮った写真のネガがあがってきたときや、撮った写真を確認したときです。撮った後に、そこで「誰か」がいたような気がする。

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言い換えると、「本来、主題であったものがない」ような感覚です。私のそういった写真は、主題との対峙ではなくて、「不在を含めた空間全体」を撮っているんだなと思います。ですので、出来上がった写真そのものは主題不在のぼんやりとした空間の写真であることが多い。その空間全体が主題では、と言われたらそうなのかもしれませんが、どうも言語化するとしっくりきません。確かにその空間がなんとなくいいなあと思ってシャッターを切っているので、その通りかもしれませんが。主題と言えるほどの、私のことばで言うところの「対象」としてのとらえる度合いが強くない。いずれにせよ、その「主題不在の空間写真」が面白く、惹かれているのです。

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それで、私が撮っているのがそういう「イメージした不在」ではなく、不在を含めた空間全体であることから、「誰か」といったイメージの存在の残滓もなく(現実における雰囲気の残り香のようなものも、多分ない)、また「見えないけどいるような存在(イメージ)」でもない。「いた」とか「いたかもしれない」という感覚よりも、「いた、のか? いた気がする、いや、錯覚だろうか」くらいの微かなものです。存在を感じさせる強い写真ではない。

撮り手と鑑賞者のイメージ

私も自分のそういった写真を見た時に、ここに誰かがいたら?という想像はします。ただ、そのとき私はすでに撮り手の立場から鑑賞者に移ってしまっている。その立場からは撮り手の、撮った時の見えていたものは見えなくなってしまっています。

私の考えではですが、鑑賞者は100%撮り手と同じ感覚というのは原則的に持てないということがあります。(写真を理解する、撮り手を理解する、というのはまた別の話です。時に写真を通じて、撮り手を本人以上に理解することはあるでしょう。もっともそれは写真に限った話ではありません)

鑑賞者は写真という結果物に、自身の主観から生まれたイメージを当てはめているだけで、撮り手のその瞬間の脳内からそれを持ってきているわけではありません。ですから、写真から汲み取る世界の空気を「解釈」して、自分のイメージを融合させます。それは「余白」とはまた別の、静止画における表現方法だと思います。本来作品から受けるイメージを、より振れ幅を大きくする。故に私は今のところ、この不在写真は「感応」による度合いが大きな写真なのだろうと考えています。

実のところ、自分の中でもこの不在写真はなにか重い位置を占めるもののように感じておりまして、じっくりと解釈と思索を深めているものです。それと、以前写真詩集の第2巻を出しますという話をしましたが、ちょうどそのタイトルが仮題で「不在漂(仮)」となっています。なんとか形にしたいなという思いです。ただ、写真において私の弱いところは、この写真を狙って撮れないことです。

撮る時点で意識してしまったら、(私における)不在写真にならないのでは、という怖れ。そして、そもそもこんな風に長々と話をしているが、そのように見える写真は単純に主題を決められないで生まれた下手なだけの写真だという批判も怖い。自己批判はすでにしているけれども、でもそれで納得もできない。というよりも写真に対する私のスタンスが、概念の整理を妨げている気がする。写真快楽主義。これについてはまた今度書きます。

言葉で定義はできるが、同時に縛りでもある

このnoteを書き始める前も書いている今も、怖いのが、こうして言葉にすることで今まで自然に生まれていた不在写真が、意識してしまうようになって生まれなくなることです。私は人から受ける言葉にも、自分の言葉にも、一度飲み込んでしまったものが時として身体を硬くしてしまうことを怖れています。

言葉は概念やあいまいな感覚を定義できますが、その定義は100%その概念を規定できるわけではありません。にもかかわらず、言葉というのは強く、意識を縛り付けたり、打ち付けたりします。自分の言葉でさえです。なので、感覚で写真を撮っていることが自分でも明らかである以上、そこに意識的なものを生ませないよう、ある程度言葉の上では曖昧なままにしておくのがいい気もします。

それでも書いてみたのは、まだこの解釈を練っているところだからです。最終的に一般化されたものになるかもしれないし、やはり自分の中の感覚文法に落ち着くのかもしれません。そもそもこういう思索自体が非常に不毛なものなのでは、という漠然とした不安もわあわあと頭の中をめぐっています。(こうして書いてしまって写真を見返すと、「不在写真」に相当する(要求する)レベルが厳密になってしまった気がして、主題不在かつ想像の余地を残した写真というのが、意外と少なく感じてきました。ああ窮屈だ、これはよろしくない、自分にとって)

また、考えが変化したり、進んだら書くか作品(写真詩集など)に落とし込むかしたいと思います。

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