秀吉から、10万石の懸賞金をかけられた男の甲冑が、トーハクに見参! @東京国立博物館
戦国時代の、誰もが知る3武将といえば、織田信長、豊臣秀吉、そして徳川家康ですよね。ただし、豊臣秀吉は織田信長の家臣でしたし、徳川家康は織田信長の盟友でした。そのため、この3人が直接対決することはなかった……と思われがちですが、一度だけ、豊臣秀吉(当時は羽柴秀吉)と徳川家康が戦ったことがあります。
それは織田信長が本能寺の変で斃れ(亡くなり)、その織田信長を襲った明智光秀を豊臣秀吉が天王山で倒した後に起こりました。豊臣秀吉は「これで俺が天下を取ったる!」と鼻息荒かった時であり、「このままズルズルと豊臣秀吉に天下など取らせちゃいかんな。わしの怖いところも示しておかねば」と徳川家康が思った時に起こりました。
戦いの名前は「小牧長久手の戦い」と呼ばれています。
そんな小牧長久手の戦いの時に、徳川家康の家臣の一人、榊原康政が、味方を鼓舞して敵の戦意を削ぐための檄文を、敵味方に送りまくります。まぁ豊臣秀吉の悪口を言いまくったわけです。
俗に「十万石の檄文」と言います。
その内容はといえば、次の通りだったと伝わってます。
「それ羽柴秀吉は野人の子、もともと馬前の走卒に過ぎず。しかるに、信長公の寵遇を受けて将師にあげられると、その大恩を忘却して、子の信孝公を、その生母や娘と共に虐殺し、今また信雄公に兵を向ける。その大逆無道、目視する能わず、我が主君源家康は、信長公との旧交を思い、信義を重んじて信雄公を助けんとして蹶起(決起)せり。」
「もともと身分の低かった秀吉が、織田信長公に将軍にまで取り立ててもらった。それなのにその恩義を忘れて、信長公の息子、織田信雄様にたてつくとは何事か! 我が主君の徳川家康は、そんな人でなしの秀吉の行いをみるに見かねて、信長公の信義を重んじて、信勝様を助けようと、今回立ち上がったのだ!」
あまり超訳になっていませんが、要は「義は、我にあり!」ということですね。これを噂に聞いた当時の羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)は、カッと怒ったわけです。なんと言っても、天下統一のかかった戦いの相手が、徳川家康です。しかも自分の本拠地である大坂には、雑賀や根来衆などが迫ってきていました。織田信長の旧家臣団も、秀吉に従ってくれる武将ばかりとも思えません。
豊臣秀吉に、榊原康政の檄文を鼻で笑うほどの余裕はなかったわけです。
それでカチンときて「榊原康政の首をとったものには、十万石の領地をやる!」と、懸賞金を釣り上げたわけです。必ず、首を取って来い! と。
まぁ、そんなようなことが榊原家に伝わったわけです。
で、そんな榊原康政の甲冑は、主に3つ残っているのですが、そのうちの2つが、東京国立博物館に収蔵されています。さらに、そのうちの1つ『紺糸威南蛮胴具足』が、2022年12月18日現在、トーハクに展示されています。
甲冑の名前は、もう見た目のそのままです。「紺色の糸で結び合わせた南蛮胴の甲冑」と言った意味です。
従来は数十枚の札(さね・板)を結び合わせて作っていた胴でしたが、戦国時代になると、南蛮……西欧の甲冑の影響で、一体成型チックなものが出てきました。榊原康政の甲冑がまさにそれで、これを南蛮胴具足と呼びました。
解説パネルには「榊原康政が、徳川家康から拝領したと伝わる甲冑」と記してあります。榊原家の家宝だったことでしょう。「兜は西欧製とみられ」るとあるので、逆に兜以外は日本製だと考えてよいようです。
この甲冑の特徴は「しろこ(革+毎)の引廻しや後立にはヤクの毛を飾っており、これを『唐の頭」 ともいいます」という部分です。
後立は、兜の後頭部にあたる部分で、しろこ(革+毎)とは、後ろや横から首や顔を護る部分ですね。
ちなみに榊原康政が、錦絵などに描かれる際には、『紺糸威南蛮胴具足』とは別の甲冑を着ていることが多いです。メジャーなのは、下の『黒糸威二枚胴具足』でしょうか。
この三鈷剣の前立がついた『黒糸威二枚胴具足』も、東京国立博物館に収蔵されています。
さらにですね、トーハクには、榊原康政の旗指物と馬印がセットで収蔵されているんですよね。戦へ出かける際の、甲冑と旗指物と馬印の3点セットが揃っているという…。
『黒糸威二枚胴具足』と『指物』、『馬印』については、トーハクでの列品番号(管理番号)が、すべて同じ「F-20138」です。また『紺糸威南蛮胴具足』も数字一つ違いの「F-20137」なので、一括してトーハクに収蔵されたと想像できます。
また『黒糸威二枚胴具足』の画像検索ページには、「平成10年度文化庁より管理換」とあるので、おそらくですが、榊原家から明治天皇または大正天皇に献上されたものが、トーハクへ渡ったと考えて良いような気がします。
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