発掘されたアイヌの呪具「鍬形(くわがた)」がトーハクで展示中です
東京国立博物館のアイヌ&琉球の部屋の展示品が、入れ替わっていました。今回は、アイヌの「祈り」に関連する展示です。
すぐに目が留まったのは、「アイヌ鍬形」と記されたものでした。
パッと見た感じは、兜の前立てのような印象です。解説パネルを読むと、次のように記されています。
国立文化財機構所蔵品統合検索システム(ColBase)には、同品について、下記のように記しています。同品を2019年に展示した際には、このColBaseと同じ文章が解説パネルに記してありました。
ColBaseには続けて、上記を補完する詳細が記されています。
アイヌの鍬形は、「全体を鉄で作り、銀の金具で装飾を施してい」るそうです。こうした鍬形は、アイヌ語では「ぺラウシトムカムイ」と考えられていたようです。現代日本語に訳すと「箆をお持ちになっている宝の神さま」もしくは「角をお持ちになっている宝の神さま」ということだそうです。
アイヌの宝物の中でも特に重要なものだったため、集落の有力者が持っていたそうです。かといって祀りなど、特定の時期だけ使っていたわけではなく、「病人の枕元におくことで病気を治し、災いを払うなどの霊力をもつ宝物として用いられました」といいます。
また鍬形は、幸福だけをもたらすわけではなく「家に置いておくと祟りをもたらす」とも考えられていたそうです。そのため、普段は山の洞窟に隠しておかれたり、地中深くに埋められたりしました。
隠したり埋められたりしていた鍬形は、いつしか使われなくなったのでしょうか。集落の酋長から新しい酋長へと受け継がれていたわけではなかったのか、それとも忘れ去られてしまったのか、「伝世品として現在に受け継がれている例はなく、現在知られているものは全て、偶然に発見されたもの」なのだとか。
アイヌ鍬形を見た後に、アイヌの部屋を出ようとした時に、なにげなく壁に印刷された絵を見て、ハッとしました。当時の鍬形をイメージするのに、ちょうどよい絵が、掲げられていたからです。
江戸時代の天明3年に、蠣崎波響によって描かれた「蝦夷紋別首長東武画像」です。この絵の原本は東博が所蔵し、時々展示されています。
絵の左側には「蝦夷紋別酋長東武の求めに応じてこの像を描いた。天明三年…波響」と記されています。蝦夷の紋別の酋長(首長)の東武さんの依頼で、この像を描いたということのようです(ブログ『北海道の絵画・彫刻』より)。東武さんが、この像の当人の名前なのか、依頼した東武さんが別に存在するのかは不明です。
開墾中に開拓民が7個の鍬形を偶然に発見
トーハクにあるアイヌ鍬形も、大正5年に、北海道栗山町の畑地を開墾中に、重なって発見された7点の鍬形の一つなのだそうです。
当時の地元紙『北海タイムス(現:北海道新聞)』は、5月13日の紙面で、その様子を伝えています。見出しは『鍬形の兜大小七個を掘出す』。
記事中に「小田勝吉」という名前がありますが、トーハクへの寄贈者「尾田勝吉」のことでしょうか。
尾田さんや代田さんなどは、アイヌ鍬形を発見した時に、角田村役場へ連絡しました。役場から警察に届け出つつ、北海道町にも報告したといいます。そして道庁から(おそらく当時は)宮内省に連絡がいき、帝室博物館へ納付するよう指示されました。村役場から七個すべてを送付すると、三個が村役場へ戻ってきたそうです。(トーハクの資料にも、返却した旨が記されています)
なお、東博にあるアイヌ鍬形の寄贈者は、尾田勝吉氏のほかに、泉麟太郎氏の名前が記されています。この泉さんは、明治期に盛んに北海道へ入植していた、仙台藩の元藩士の一人です。正確には仙台藩の家老筆頭で、今の宮城県角田市角田を領していた石川氏の家臣だった人です。石川氏は泉麟太郎さんなどが中心となり、北海道の開拓を開始し、開拓した土地に「角田」の名前をつけたのでした。そして泉麟太郎さんは、その北海道夕張郡角田村の初代村長となりました。
尾田さんがアイヌ鍬形を偶然発掘し、報告した時には、泉麟太郎さんが村長だった可能性もあります。そのため、寄贈者の1人として泉麟太郎さんの名前が入っているのかもしれませんね。
ちなみに、鍬形とは全く関係ありませんが、角田村は昭和24年に、1町2村が合併して栗山町と改称します。そして栗山町の北部には、鳩山和夫が開墾したことで知られる鳩山地区があります。鳩山和夫さんの曾孫が、鳩山由紀夫さんなのだそうです。(Wikipediaより)