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東京国立博物館で、古人の名筆をプリントした「拓本」が勢揃い!

東京国立博物館(トーハク)では、現在『拓本のたのしみ一明清文人の世界一』という特集展が開催されています。特別展ではないので、入場料の1,000円ぽっきりで見られます。(1月2日〜3月16日・前後期で展示替えあり・前期は2月2日まで)

そして、拓本ってなんだ? ってことなんですけど、拓本とは昔の……中国古代の……青銅器(金)や石碑(石)などに刻まれた金石文字や、肉筆による歴代の名筆を複製したものです。青銅器や石碑などには、紙をあてて、墨を使って刻んである文字や模様を写し取ったんですね。文字や模様の凹凸を紙に写し取るという意味では、魚拓と同じようなもの……と言ったら誰かに怒られますかね……。

魚拓は別として、これらを「金石拓本」と言います。また肉筆に関しては、「名筆を版に刻して拓本にとって編集」したとあります。こちらを「法帖」と呼びます。そして金石拓本と法帖とをまとめて「碑拓法帖(ひたくほうじょう)」と総称されるそうです。

つまり拓本とは、世界に1つしかない貴重な文物をプリントして、1人または多くの人が楽しめるようにしたものです。さらに現在は、その拓本を書籍にしたり、わたしのように写真に撮ったりすることで、何百年も前に刻まれた文字などを本当に誰もが見られるのですから、昔の人たちにありがとうと言いたいですし、すごい時代になったものです。

中国拓本年表
トーハクはじめ、今回の特集を共同で開催している書道博物館で見られる拓本が、どの時代に成立したのかを記した年表です(表内には三井記念美術館蔵の拓本も記されています)

さて、碑拓法帖のうち「碑拓」については、唐時代(618~907)にはすでに普及していたとみられ、宋時代(960~1279)には「碑拓」に加えて「法帖」の制作・鑑賞・研究がトレンドとなったそうです。さらに元(1271〜1368)・明(1368〜1644)を経て清(1616〜1912)に至るまで、碑拓と法帖のいずれに重きを置くかは時代によって推移し、鑑賞・研究の水準は清時代に頂点に達したのです。

これら「碑拓法帖」は、その書を手習いして「臨書」や「模本」になったり、鑑賞記録として書きつけられた題跋や印記などの資料としても残っています。なかでも、書画家や収蔵家としても名を馳せた明・清時代の文人たちによるこれらの資料は、比較的多く残されていて、当時の状況を伝えているのだそうです。

『拓本のたのしみ一明清文人の世界一』では、「碑拓法帖」はもちろん、それら古代の書の拓本に魅せられた明や清の時代の文人が、どのように楽しんだかが展示されています。
※以上は同特集の序文を元に記しています。


■金石家を魅了した石経の宋拓本

東洋館の8室で、最初に見ることになる展示ケースは、たいてい国宝や重要文化財などの貴重な作品が展示されていることが多いです。ただ……今回は、なぜこれなの? というのが、拓本素人のわたしにはさっぱり分かりませんでした。とはいえ、展示位置からして貴重なものだと思うので、記しておきます。

《宋拓漢石経残字(そうたくかんせっけいざんじ)》
伝蔡邕(132~192)筆|中国|後漢時代・熹平4年(175)

《宋拓漢石経残字(そうたくかんせっけいざんじ)》と書かれていますが……タイトルを読んでも「なんのこっちゃ?」です。

まず、拓本……これはおそらく碑拓なので、元の石碑があったはず。なんの石碑かと言えば、、『尚書』や『論語』など7種類の経典を石に刻して、後漢(王朝)の首都・洛陽の太学(最高学府)の門外に建てられたものだといいます。

ただ残念ながら、石碑を建てた後、ほどなく戦乱によって石碑の多くが壊滅。清(王朝)の末期に、その断石(かけら?)が大量に出土して、注目を浴びたそうです。

熹平石経【きへいせっけい】は、『尚書』や『論語』など7種類の経典を校訂し、標準テキストとして石に刻し、洛陽の太学の門外に建てたものです。鴻都石経(こうとせっけい)ともいいます。建碑後ほどなく戦乱で多くが壊滅しましたが、清の末頃に洛陽から断石が大量に出土して、多くの学者の注目を浴びました。で……おそらく、それら残石をもとに拓本が作られ……その1つがトーハクに渡って目の前に展示されている……ということのようです。つまり解説パネルに記されている「熹平4年(175)」というのは、拓本が作られた年ではなく、元となった石碑が建てられた年を指すのでしょう。

刻まれているのは、その西暦でいうと175年の後漢時代の、公式書体である「八分」という「隷書」なのだそう。わたしにはちんぷんかんぷんですが、解説にはそう記されています。

旧蔵者の銭泳(号梅渓、1759~1844)は拓本の側に自らの考証を記したそうです。上の写真の、墨の拓の左側に色々と書き込んだのが、銭泳さんのようです。この残石の拓は11個あり、それらをまとめて一冊に仕立てました。その巻頭に、当時(清末)の碑帖研究の大家の翁方網(1733~1818)さんが、隷書で題を記したと解説にはあります。さらに「本作を手にした銭泳の肖像(巻頭)」が添えられています。それが下の写真ですね。ずいぶんと頬の痩けた人物が、銭泳さんということです。

と、ここまで書きましたが、タイトル《宋拓漢石経残字》の“宋拓”というのは、なんですかね? 拓本にしたのが宋時代とも解せますが、すると解説と矛盾するんですよね。“漢石経残字”というのは、漢字の記された……(もしくは)漢時代の石経の残字…残石……ということだと思います。

■「拓本あれこれ」

次に「拓本あれこれ」というコーナーが続いています。解説によれば「書の拓本は、版の作り方や状態、そこから紙墨などでいかに写し取るかにより、字姿や趣が大きく変わります。また、装幀の仕方も拓本の見え方に影響します」とあります。

その例として、《万安橋記》という2つの拓本が展示されています。

2つの、《万安橋記》

まずはオーソドックスな「原石の全形をとどめる整本(全揚本)」の方を見ていきましょう。オーソドックスと言っても、オレンジ色……朱の顔料を用いているため、その鮮明な拓調が展示室の中でもひときわ目立っています。

《万安橋記 TB-230》
由井勇造氏寄贈

泉州萬安渡石橋始造扵皇祐五年四月庚寅以嘉祐四年十二月辛未訖功〓趾于淵釃水爲四十七道梁空以行其長三千六百尺廣丈有五尺翼以扶欄如其長之數而兩之靡金銭一千四百萬求

泉州の万安渡の石橋は、皇祐5年4月庚寅の日に造り始められ、嘉祐4年12月辛未の日に完成した。この橋は、淵をまたぎ水を渡るもので、47の梁が設けられた。その全長は3,600尺、幅は1丈5尺である。さらに、手すりを支える翼も全長に応じた数が両側に設置された。この橋の建設にあたり、費やされた金銭は1,400万に及んだ。

この石碑に刻まれているのは、1012~1067年(北宋時代)に生きた蔡襄さんが、泉州(福建省)の知事を務めていた、49歳の時に記したものです。蔡襄さんが尊敬していた、書の神様的な「顔真卿(がんしんけい)を彷彿とさせる重厚で威風堂々たる字姿」だと解説パネルでは評価しています。

そして、その朱の拓本の隣に展示されているのが、同じ石碑から作り、文字を「切り貼りして折帖に仕立てた剪装本」の《万安橋記》です。冒頭の「泉州」の文字が貼られたページが展示では見られます。(どういうことなのか、この剪装本と、前述のオレンジの全揚本とでは、文字の大きさが異なりますよね。文字を拡大しているこちらの剪装本も、拓本の部類に入るんですかね)

《万安橋記 TB-1378》
高島菊次郎氏寄贈

■自然の岩肌に刻まれた雄大な《開通褒斜道刻石》

《開通褒斜道刻石(かいつうほうしゃどうこくせき) TB-447》は、橋ではなく、道路の開通を記念した石碑の拓本です。漢中の(ほう)から(しゃ)に通じるということで《開通褒斜道刻石》と称されています。そうと分かれば「なぁんだ」という感じですね。

《開通褒斜道刻石(かいつうほうしゃどうこくせき) TB-447》
後漢時代・永平9年(66)

解説には「波磔(はたく)のない古隷という様式の隷書(れいしょ)」で記されているとあります。「波磔(はたく)とは、左右の払いで波打つような運筆」と記しているサイトもありましたが、わたしの解釈だと、ギュイン! とした感じの、ちょっと大げさな……気取った感じの払いのことを言うのかなと。今作では、その波磔を使わない隷書で、その代表的な作例の1つなのだそう。

もとの文字は、凹凸のある自然の岩肌に刻されたものなので、文字の大きさや形が変化に富んでいます。

3つの画像を並べたものです。実際には真ん中の石版が割れたような斜め線以外の分かれ目はありません

■荘厳な碑側まで、淡く美しい拓調の《大智禅師碑》

下の写真の中央と左の拓本は、いずれも《大智禅師碑》と言われ、唐時代の開元 24年(736)に史惟則(しいそく・生没年不詳)という人の書を刻んだ石碑から摺ったものです。唐時代の中期の高僧で、皇帝・玄宗から大智禅師の諡号を贈られた、義福さんの功績を称えた文章なのだそう。

《大智禅師碑 TB-338》
史惟則(生没年不詳)筆|中国|唐時代・開元 24年(736)
紙本墨拓

解説によれば「史惟則は、韓択木・蔡有鄰・李潮(李陽冰)とともに唐隷四大家に数えられます」とあります。唐の隷書が上手だった四天王の1人ということでしょうか。わたしは名前を聞いたことがありませんでしたが、中国人の方が熱心に写真を撮っていました。

近づいて2つの拓本を撮ってみました。同じ石碑から摺ったものなので当たり前ですが、ぴったり同じです。ただし左側の拓本の方が墨の黒が強く、コントラストが高いので字を読み取りやすいですね。

こちらが右側の拓本
こちらが左側の拓本

解説には「本作の書は線が太く、ふくよかな造形です。このような字姿から豊肥とも評される当代の隷書表現は、自身も隷書をよくした玄宗の好みを反映したものと言われます。玄宗期をピークに、隷書をよくする者が多く現れました」としています。ここで使われている払いを波磔(はたく)というのでしょうか……間違っていたらごめんなさい。ただ、感想としてはなんだか「美しいだろう?」といった雰囲気の文字で、「きれいだね」とは思いますが、あまり好みではありません。←あくまでわたしの好みであり、好きな人も多いだろうな…とは思います。

こちらが右側の拓本をさらに拡大したもの
こちらが左側の拓本をさらに拡大したもの

◉元の石碑が西安碑林博物館に現存する拓本たち

以下の何点かは西安碑林博物館という、中国全土から石碑などを集めた博物館に、元となった石碑が現存する拓本です。

■欧陽詢による《皇甫誕碑》

《皇甫誕碑 TB-1367》欧陽詢(557~641)筆
中国|唐時代・貞観元~15年(627~641) | 紙本墨拓
高島菊次郎氏寄贈

《皇甫誕碑 TB-1367》は、欧陽詢(おうようじゅん・557~641)という、随から唐の時代に生きた儒家・書家の文字です。解説パネルに「碑石は西安碑林博物館に現存」とあったので、同館のWebサイトを見たら、あっさりと見つかりました。石碑自体は「国宝級のもの」と記されています(中国に「国宝」を指定する制度があるのかは知りませんが…)。石碑の高さは188cmで幅は95cmだといいます。拓本を見て想像していたものよりも随分と大きなもので、少し驚きました。

その中国の石碑の「皇甫誕」という人に関しては、以下のように記されています。まぁ、読んでもさっぱり状況が分かりませんが、いちおう残しておきます。

隋の文帝の末年、漢王楊諒が并州(現在の太原)で挙兵し反乱を起こしました。当時、皇甫誕は并州司馬を務めており、楊諒を説得して反乱を止めようとしましたが失敗し、逆に殺害されました。この出来事は仁寿4年(604年)のことで、享年51歳でした。その息子である皇甫無逸は隋朝の旧臣として唐高祖から礼遇され、滑国公に封じられました。彼は父親の崇高な志節を称えるため、貞観10年から12年(636年~638年)の間に、現在の陝西省長安県鳴犢鎮にある皇甫誕の墓前に碑を建立しました。明代初期には西安碑林に移されました。

そして欧陽詢(557年~641年)については、「字(あざな)を信本といい、潭州臨湘県(現在の湖南省長沙市)の出身。隋の煬帝が即位すると、欧陽詢は太常博士に任じられました。武徳3年(620年)、夏王竇建徳に仕え、太常卿を授かりました。武徳5年(622年)、唐高祖李淵に帰順し、侍中、銀青光禄大夫、給事中、太子率更令、弘文館学士などを歴任し、渤海県男に封じられました。また、『芸文類聚』の編纂を主導し、貞観15年(641年)に85歳で亡くなりました。」

随の煬帝の時代ってことは……聖徳太子が小野妹子を随に送った時の皇帝っていうことですよね。

「欧陽詢は書法に精通しており、虞世南、褚遂良、薛稷とともに「初唐四大家」と称されます。彼の書法は端正さの中に大胆さがあり、「欧体」として知られています。代表作には、楷書の『九成宮醴泉銘』『皇甫誕碑』『化度寺碑』『虞恭公温彦博碑』、行書の『仲尼夢奠帖』などがあります。この碑は、『九成宮』など他の欧陽詢の碑文と比較すると、筆遣いや構成がより細く鋭く険しいとされています。」

とにかく石碑は、皇甫誕という人を称えた頌徳碑(しょうとくひ)とのこと。于志寧さんという方が撰文し、欧陽詢さんが筆をとったものです。トーハクの解説によれば「明の万暦年間、地震により碑石が断裂し、本拓本はそれ以前の未断本として貴重です」としています。そしてこの拓本は、有名なのかどうか知りませんが……きっと有名なのでしょうが……文鼎(ぶんてい)、楊継振、張赤などの人々が旧蔵していたそうです。下の写真が、石碑の文末のところです。

■王羲之の書を集めて書かれた《集王聖教序》

どの世界にもルールというか作法というか、ならわしのようなものがあり、素人がパッと入って理解する……なんてことは難しいわけです。トーハクの展示品もそうで、特に文化の異なる東洋館の展示品は理解するのが難しいような気がいたします(と、丁寧に書いてみました)。

集王聖教序 TB-1633》の解説パネルを見ると、まず王義之(おうぎし・303~361)という書のトップ オブ レジェンドみたいな方が筆をとったものだと記されています……「王羲之筆」とね。わけが分からないのが、王羲之は西暦361年に亡くなっているのに、展示品の成立年が唐時代の咸亨3年(672年)と記されていること……。ここから解説しておきたいと思います。

《集王聖教序 TB-1633》王義之(303~361)筆|中国|唐時代・咸亨3年(672)紙本墨拓
江川吟舟氏寄贈

《集王聖教序》とは何か? というと、タイトルが分かりづらい(笑) 「集王」とは「王羲之の書を集めた」ということで、集めた王羲之の文字で記した「聖教序」ということです(わたしの理解だと……)。そして「聖教序」とは、上の写真の冒頭の通り「大唐三蔵聖教序」だということ。唐の三蔵法師が教えてくれた聖なる教え……その序(まえがき)ですよ……ということです←いや、若干意味合いが違うようですが……まぁそんなところかなと。

三蔵法師って誰? っていうと「仏教の経典である経蔵・律蔵・論蔵の三蔵に精通した高僧」のことですけれど、一般的には……唐時代の三蔵法師と言えば、『西遊記』に出てくる玄奘(げんじょう)さんです。孫悟空や猪八戒などを連れて西域へ行き……西遊して、解釈書などを含む仏典を持ち帰ってきて、当時の中国語に訳した人です。そうして『瑜伽師地論(ゆがしじろん)』という解釈書を著したのですが、その解釈書……論文の前書きである序を、当時の唐の皇帝・太宗に書いてもらいました。それが「大唐三蔵聖教序」であり、その序を王羲之の書を集めて記している……ということが、ギュギュッと縮まって《集王聖教序》と称しているというわけです。タイトルを見ただけで、分かるわけがない(笑)

ちなみに玄奘さんが亡くなったのは664年です。この碑は、没後8年に作られました。碑の高さは350cmで、碑の上部には平面彫刻の七尊仏像が彫られています。なんでそんなに詳しいかと言えば、こちらの原碑も西安碑林博物館に所蔵されているからです。同館に移されたのは北宋の時代です。

おそらく、この拓本を所蔵した人たちの印です

インドでの経典収集を終えて帰国した玄奘(げんじょう)さんは、唐の皇帝・太宗から翻訳事業を行うよう長安の弘福寺に場所を用意してもらったそうです。貞観21年(647年)3月には翻訳活動が慈恩寺に移され、貞観22年(648年)10月には玉華寺へと移されました。気分を変えるためだったのか、資料を求めて引っ越したのかもしれません。

同年8月に玄奘は、長孫無忌や褚遂良(ちょすいりょう ←この人! あとからも出てきます)といった人たちと翻訳した『瑜伽師地論(ゆいしじろん)』を太宗に献呈し、太宗に序文の執筆を依頼しました。太宗はこの百巻にも及ぶ仏教典籍を1カ月以上かけて精読し、『大唐三蔵聖教序』を執筆したそう。その後すぐに、同師が最初に活動した弘福寺の住職である円定が、これらの序文を碑石に刻むことを太宗に提案し、許可を得たのだそう。そして寺僧の懐仁という人が、王羲之の書(文字)を集めて、約20年後の咸亨3年(672年)にこの碑を完成させました。玄奘の没後8年のことでした。

同館のWebサイトには、「この碑の成立と伝拓は、王羲之の書法を広く普及させ、その地位を確立する上で決定的な役割を果たした」と記しています。その拓本が日本にもわたってきて、いまトーハクで見られるということです。ちなみに《集王聖教序》は、上の江川吟舟氏寄贈の《TB-1633》のほか、《TB-340》が展示されています。

■王羲之の行書を集めて記した《興福寺断碑》

《興福寺断碑》も、元となった碑石が西安碑林博物館に現存する拓本です。中国語では、「兴福寺残碑」、つまり「興福寺残碑」なので、まぁだいたい日本語も、この名前を踏襲しているということです。

《興福寺断碑 TB-1366》王義之(303~361)筆|中国|唐時代・開元9年(721)紙本墨拓
高島菊次郎氏寄贈

西安碑林博物館の解説によれば、『興福寺残碑』は別名を『呉文残碑』といい、高さは80cmで幅は103cmの残存部分が現存しています。唐の第9代皇帝の玄宗・李隆基の時代、開元9年(721年)に刻まれました。現存するのは碑の下半分のみです。

この碑は、唐代の興福寺の僧・大雅が、王羲之の行書を集めて宦官・呉文のために建立したものであり、呉文の生涯や皇室からの恩寵について記されています。

西安碑林博物館の解説で続けます……

碑文は王羲之の書法を集めたものであり、筆画は明瞭で、字体は端正かつ流麗で自然な趣があります。また、碑の側面には精巧で独特な装飾模様が施されており、(王羲之の)晋代の書風と、唐代の装飾美が見事に融合しています。本碑は歴代の書法家たちに愛され、その書法芸術および歴史資料としての価値は極めて貴重なものとされています。

なおトーハクには、ほかにも《興福寺断碑 TB-358》を所蔵しています。気が付きませんでしたが、こちらも2月2日(今週末)まで展示されています。

王羲之《興福寺断碑》唐時代・開元9年(721)
こちらは去年撮った写真

■鮮明な字姿が特徴の顔真卿早期の代表作《千福寺多宝塔碑》

顔真卿(がんしんけい・709~785)は、王羲之と並んで日本人の間でも有名な、唐代の書家・政治家です。《千福寺多宝塔碑 TB-1371》は、その顔真卿が44歳の時に書した、長安の千福寺の多宝塔の建立経緯を記した石碑。こちらも碑石が西安碑林博物館に現存していて、「多宝塔感应碑(多宝塔感應碑)」と称されています。そして碑石については「国宝級」だとされています。

《千福寺多宝塔碑 TB-1371》顔真卿(709~785)筆|中国|唐時代・天宝11年(752)紙本墨拓高島菊次郎氏寄贈

西安碑林博物館の解説に依ると、この碑は現存する顔真卿の碑石の中で最も古いものとされるそう。

「筆画は円熟し、端正でありながら力強く、すでに彼の独自の書風が確立されている」としています。また明代の学者・孫鑛は『書画跋』において、「これは鲁公(顔真卿)の最も均整の取れた書であり、秀麗さと優雅さを兼ね備えている。ただし、やや世俗的な趣もあり、近世の掾史(役人の書記)の書風の祖ともいえる」と評しているそう。

トーハクの解説パネルによれば、この拓本は「碑帖に精通した清の王澍が鑑定した拓本。摩滅が少なく文字の輪郭が鮮明です。王澍のほか、銭大町、伊、王文治ら碑学・帖学の名家が題跋を付します」と記しています。登場する名前が誰なのかはさっぱり分かりませんが、きっと昔のビッグネームが並んでいるんでしょうね。

この顔真卿が書したとされる《千福寺多宝塔碑》は、そうとう有名なものらしく、トーハクの今特集では完全バージョンが壁際に展示されていました。下の写真は先ほど《大智禅師碑》の項でも掲載しましたが、一番右側にギリギリ写っているのが《千福寺多宝塔碑》です。ちなみに題字を記したのは、顔真卿ではなく、彼の同僚です。

■楚金和尚と千福寺・多宝塔建立の経緯

前項で記した碑文《千福寺多宝塔碑》は、西安碑林博物館の解説では「長安の龍興寺において、楚金和尚が多宝仏塔を建立した事績が記されている」とあります。でも「龍興寺の和尚が、なんで千福寺に多宝塔を建てたの?」と思ったので、さらにGoogleさんに尋ねたところ、次のような嘘か本当なのか分からない中国語サイトが出てきたので、和訳して残しておきます。興味がない人にはたいへん退屈かと思うので、飛ばし読みしていってください。

なお、このあとに記す日本語訳は、中国語サイトに記されている中国語を、無料版のChatGPTにより和訳したものです。(いちおうセカンドオピニオンとして、いま話題の中国AI「DeepSeek」でも同じ文章を翻訳してみました。内容は同じでしたが、若干、わたしにはChatGPTの日本語訳の方が読みやすかったので、こちらにはChatGPT訳を残します)

書道を愛する人ならば、歴史上有名な「多宝塔碑」を知らない者はいないだろう。この碑の正式名称は『大唐西京千福寺多宝仏塔感応碑』であり、顔真卿の書法の代表作の一つである。碑文の構成は厳密で、筆画は丸みを帯びながらも端正で美しく、一筆一画に静と動の調和があり、まるで仙界へ舞い上がるかのような趣を持つ。古来より書家たちに崇められ、後世の書道家が顔真卿の書風を学ぶ際、必ずこの碑を手本とするほどである。

しかし、この碑の由来について詳しく知る人は少ないだろう。実は、この碑は中唐時代の悟真寺にいた高僧・楚金と深い関わりがある。

楚金(698~759年)は中唐の名僧であり、俗姓は程。河北広平(現在の河北省宛平県)の出身で、幼少期に家族とともに長安へ移住した。彼の母・高氏は長らく子を授からなかったが、ある夜、仏の夢を見た後に懐妊し、楚金を生んだ。

幼い頃の楚金は、玉のように端正な顔立ちを持ち、穏やかな気質の持ち主であった。七歳の時に出家を決意し、ある日、経蔵で偶然手に取った『法華経』を繰り返し読み、その教えを深く信奉するようになった。九歳で長安の西京・龍興寺に入り、僧侶の菉を師と仰いで出家し、十八歳になるとすでに『法華経』の講義を行うほどの学識を備えていた。

『法華経』には「多宝塔品」の記述がある。それによると、多宝仏は東方の宝浄世界の教主であり、かつて菩薩行を実践していた際に、「自らが成仏し入滅した後でも、十方世界のどこかで『法華経』が説かれるときには、地中から現れ、その真理を証明する」と誓願したという。実際に釈尊が『法華経』を説いた際、七宝塔が地中から湧き出し、空中にそびえ立ち、その内部には禅定の姿勢を取る多宝如来が現れ、釈尊と席を分かち合ったとされる。
楚金が三十歳のとき、夜に『法華経』の「多宝塔品」を読誦していた際、突然、心身が静まり禅定の境地に入り、一つの宝塔が目の前に現れる幻を見た。同時に、無数の釈迦仏の分身が空を満たしている光景も目にした。楚金はこれに深く感動し、その場で決意を固め、房にこもって六年間の閉関修行を行うことを誓った。この間、彼は一日一食を守り、一歩も外に出ることなく修行に励んだ。そして六年後、ついに宝塔を建立することを決意した。

唐の玄宗(李隆基)はある夜、夢の中で九重の天上にいる一人の高僧の名前を目にしたが、目覚めた後には「金」という字しか覚えていなかった。彼が臣下に尋ねたところ、皆が口を揃えて「楚金和尚」の名を挙げた。これをきっかけに、玄宗は楚金を篤く信奉し、彼の名声は一気に京城に広まった。

その頃、千福寺に懐忍禅師という僧がいた。ある夜、彼は夢の中で一筋の泉が龍興寺から流れ出し、千福寺へと注ぐのを見た。その泉は清らかで澄み渡り、水面には一艘の小舟がゆっくりと流れていた。さらに、一基の宝塔が空中から降りてきて、しばらく留まった後に消えた。

この話を聞いた楚金は、仏菩薩の啓示であると確信し、天宝元年(742年)に千福寺で多宝塔の建設を開始した。工事が始まると、彼は毎夜、建設現場の階段前で経を唱えた。不思議なことに、経を唱えている間、空中には自然と天の楽が響き、かぐわしい香りが漂ったという。

天宝3年(744年)、楚金は自身の血で『法華経』一部、『菩薩戒』一巻、『観普賢経』一巻を書写し、その過程で三千粒の舎利を得た。彼はこれらの舎利を石函に納め、自らが仏に跪く姿を彫刻した石像とともに塔の基壇に埋め、深い敬意を表した。

天宝11年(752年)4月、多宝塔はついに完成した。この塔は四角七層の構造で、レンガ造りの外観を持ち、内部には木造の階が設けられており、梯子を使って登ることができた。その造りは大雁塔に似ていた。

唐の玄宗は、この塔の建立を記念し、監督官の趙思侃に命じて『大唐西京千福寺多宝仏塔感応碑』を建立させた。そして、その碑文を書いたのが顔真卿であった。この碑こそが、彼の名を世に広める代表作となったのである。
楚金は晩年、悟真寺や翠微寺を隠棲の地とし、それぞれに多宝塔を建立することを請願した。

乾元2年(759年)、楚金は示寂し、62歳でその生涯を終えた。彼は長安城西の龍首にある、かつての法華蘭若塔の側に葬られた。唐の玄宗は彼の死を深く悼み、特使を派遣して弔問させ、葬儀を監督させた。また、自ら塔の額を書き、楚金に「大円禅師」という諡号を贈った。

『楚金法師和多寶佛塔的奇緣』
ChatGPTによる日本語訳

■李思訓碑

(石碑である)『李思訓碑』は、唐代の著名な書法家である李邕(りよう)の代表作の一つであり、正式名称は『唐故雲麾将軍右武衛大将軍贈秦州都督彭国公諡昭公李府君神道碑并序』というそう……長いな……ということで、略して『雲麾将軍碑』とも呼ばれています。石碑は中国の蒲城博物館に現存していますが、下の方が摩耗していて解読できない文字が多数ある状態です。

この『李思訓碑』に刻まれた李邕(りよう)の書は、かなり人気のようで、トーハクだけで、今回の高島菊次郎氏寄贈の《TB-1369》のほか、市河三鼎寄贈の《TB-108》や、高島菊次郎(槐安居)旧蔵の《TB-1370》と、少なくとも3点が所蔵されています。

なぜこれほど人気があるのか? といえば……実際に文字を見てみれば分かります……なんてはずもなく、色々と調べてみました。まずはトーハクの解説パネルには次のように記されています。

李思訓は唐の宗室の出身で、画家として名高く、後世、北宋画の祖と仰がれました。李邕は官僚で文章と書法に優れ、とりわけ墓碑の銘文を得意としました。本碑は李邕の行書碑の代表作で、碑石は陝西省蒲城県に現存します。本帖は毛晋、毛懐、張俲彬(ちょうこうひん)らの旧蔵。

トーハクの解説パネル

碑文を書いた人:李邕(りよう・678年 - 747年)
碑文が讃えている対象者:李思訓(653年 - 718年)

両人とも唐の第9代皇帝・玄宗(治世:712年 - 756年)の時代に活躍しました。いずれも書家や画人として有名ですが、同時に政治家でもあり、反乱などがあれば平定するために出陣しています。

そして《李思訓碑》が主に後代の人たちに注目されているのは、書家の李邕(りよう)が、行書の名手として人気を博したからで、李思訓さんを絶賛というか賛美している文章の内容については、あまり注目されていません(何が記されているか気になる方は、100%の正確性を保証しませんが、下記からテキスト=rtfファイルをダウンロードしてください)。同碑は、李邕が61歳以後の書と言われています。となると西暦739年のことなので、李思訓が亡くなってから約20年後に記されたことになります。

誰?

今回展示されている高島菊次郎氏寄贈の《李思訓碑 TB-1369》が面白いのは、単に李邕(りよう)の書が見られるだけでなく、おそらく李思訓なのか李邕(りよう)なのかを描いたイラスト入りな点です。この絵の周りにも、様々な人の落款というか捺印があるので、この絵自体が有名な方によるものなのかもしれません(いや単なる推測です)。

文字については、何がそんなに凄いのかを、中国語サイト『書法字典』を参考にしたいと思います(このサイトの信憑性は全く分かりません)。

この碑の書法は細く力強く、厳然たる勢いがあり、字の構成は縦に長く伸びやかで、奔放かつ流麗です。その筆遣いの抑揚や起伏は生き生きとしており、古来より《麓山寺碑》と並んで高く評価されてきました。明の楊慎は『楊升庵集』の中で「李北海の《云麾将軍碑》は彼の最高傑作である」と述べています。また、清の康有為は『広芸舟双楫』において、「唐碑のうち、懐仁が集めた《聖教序》は別格とする。それ以外で学ぶべきものとして三碑がある。李北海の《云麾将軍碑》は、規則の中に奇抜な変化を含み、顔平原(顔真卿)の《裴将軍碑》は分書の法を力強い筆致の中に秘め、《令狐夫人墓誌》は運筆の抑揚が見事であり、行書を学ぶ際の優れた碑である」と評しました。梁啓超も「北海の碑文は四方に光を放ち、《云麾》(すなわち《李思訓碑》)はまさに龍が跳ね虎が伏すような姿を極めたものである」と称賛しています。

李邕の書法は「二王」(王羲之・王献之)の筆法を基礎にしつつ、独自の境地に至りました。この碑の筆遣いは細く力強く、方筆と円筆を兼ね備え、字体にはやや斜めの傾きが見られますが、荘重さを損なうことはなく、奇抜さの中にも安定感があります。この豪放で雄健な気風は、東晋の二王以来の行書には見られなかったものです。李後主(南唐の李煜)は「李邕は右将軍(王羲之)の風格を得たが、その体格には欠ける」と評し、李邕の学習の巧みさを的確に表現しました。『宣和書譜』には「李邕は書に精通し、行書と草書で名声を得た。初めは右将軍(王羲之)の行書を学び、その妙を極めた後、古い習慣を脱し、新たな筆力を生み出した」と記されています。

魏晋以来、碑銘や刻石は基本的に楷書で書かれていましたが、唐代に入ると李邕はこれを改め、行書で碑文を書くようになりました。彼の書法は個性が非常に際立っており、字形は左が高く右が低い傾向があり、筆力は伸びやかで剛健です。その書風は険しさと爽やかさを兼ね備えており、彼は伝統を受け継ぎつつも革新を提唱しました。「私に似せようとする者は俗に流れ、私を学ぼうとする者は道を誤る」と述べたことでも知られています。

李邕の書法は後世の書家に大きな影響を与えました。蘇東坡(蘇軾)や米元章(米芾)は彼の特徴を取り入れ、元代の趙孟頫もその筆意を追求し、「風度閑雅(気品があり優雅)」な書法の境地を学びました。杜甫は彼の書を称えて「声華は健筆に当たり、洒落して清制に富む(名声は彼の力強い筆によるもので、その筆致は落ち着いて洗練されている)」と詠み、多くの人々がこれを仰ぎ見ました。

2008年7月には、浙江省教育庁が小学校高学年と中学校の書写の教科書に李邕の書法を採用し、義務教育の教材として使用しました。今後、李邕の書法は王羲之の書と同様に、中国全土で広く学ばれる存在となることでしょう。

李邕(678~747)筆|中国|唐時代・開元8年(720)紙本墨拓
高島菊次郎氏寄贈

今回の拓本《李思訓碑》を見ると、表紙には「北宋拓雲麾将軍碑」と記されています。その下には「汲古閣蔵本」と「寳煕爲俲彬題(寳煕が俲彬のために題する)」とありますね。このことからも、トーハク解説パネルにあったとおり、(汲古閣のオーナーである)毛晋さんを経て、毛懐さんが誰かは分からないけれど、張俲彬(ちょうこうひん)さんの手に渡ったと分かります。

◉王羲之(おうぎし)と蘭亭序(らんていじょ)

書をよく解さないわたしからすると、王羲之(おうぎし)と言えば蘭亭序……蘭亭序と言えば王羲之であり、拓本と言えば「やっぱり王羲之のがないとねぇ」なんて知ったかぶりしておきたいです。

とにかく「なんでこんなに蘭亭序が愛されているの?」っていうくらいに、蘭亭序は人気。「蘭亭序」って名前につく展示品が、いったいどれくらい所蔵されているんだ? っていうほどよく見かけます。以下は今回の蘭亭序関連展示品を紹介しますが、その前に、2023年に開催された『王羲之と蘭亭序』特集について記したnoteを読むと、「蘭亭序って何?」というのが少し分かると思います。

ちなみに王羲之さん(303年 - 361年)が書いたという書や真跡は現存しません。ただし、唐の時代(618年 - 907年)には残っていて、それを太宗皇帝(598年 - 649年)が掻き集めていました。その中に「蘭亭序」もあったんです。その太宗所蔵の蘭亭序を、色んな人が真似して臨書したり、模本を作ったりしました。有名なものだと欧陽詢(おうようじゅん)の「定武本」、虞世南(ぐせいなん)の「張金界奴本」、褚遂良(ちょ すいりょう)の「褚模本」ほか、馮承素が臨模した「神龍本」が挙げられます。いずれも本当に欧陽詢が写したのか? などは不明です。

■蘭亭図巻(万暦本)

蘭亭序シリーズのトップバッターは、《蘭亭図巻(万暦本)》です。こちら文字が少なく絵がメインなので、書を知らない人でも「ふぅ〜ん」ていう感じで見ていけます。

ちなみにトーハクの解説パネルの説明は、書道を習っている人であれば「おぉ〜、そういうことかぁ」と興味深いと思いますが、「蘭亭序ってなに?」っていう人が読むとちんぷんかんぷんです。ちなみにわたしは後者寄りです。

定武本、同肥本、同瘦本、褚遂良本、唐摸賜本の5種の蘭亭序と、蘭亭での流觴曲水による詩会の様子を表した北の李公麟の作にもとづく蘭亭図、東晋の孫綽(320~377)の後序、そのほか蘭亭の関連資料を集刻した一巻です。
明の皇族の周憲王・朱有燉(1379~1439)が作った版をもとに、益宣王・朱翊鈏(1537~1603)が趙孟頫の「蘭亭十八跋」と自跋を加えて重版し、さらに子の益敵王・朱常せん(1559~1615)がこれを重版しました。本作は題字「蘭亭真蹟」に捺される印から益敬王本と言われます。

解説パネルより

日本には様々な《蘭亭図巻》が残されていますが、国立博物館には九州と東京に3点が所蔵されています。内訳は《永楽本(1417年・九州)》、《万暦本(1592年・東京)》、それに《乾隆本(1780年・東京)》。現在展示されているのは、高島菊次郎氏寄贈の《万暦本》です。

《万暦本》は、上の解説にある通り、「定武本」ほか計5種類の蘭亭序と、なんと李公麟の“作にもとづく”蘭亭図、そのほか蘭亭序の後序などを一巻に集めたものです。展示では、肝心の「5種の蘭亭序」を展示するのは難しいため、おそらく毎回「李公麟の“作にもとづく”蘭亭図」が見られるようになっているのでしょう(推測)。ということで、Colbaseの画像データで「5種の蘭亭序」の冒頭というか……右上の部分を拡大して、各本の違いを比べてみようと思います。

定武本
定武肥本
定武瘦本
褚遂良本
唐摸賜本

こうして並べてみた結果……だから? って感じになりました(笑) 書を学んでいるわけじゃないから、感慨もないです。ただ、この画像データを作るにあたって、画像ソフトで5種類の蘭亭序を重ね合わせて、比較してみたんですよ。定武系の3種類が似ているのは、まぁあれとして、そのほかの本……バージョンも、こんなにそっくりだとは思いませんでした。だって、書かれたのは晋(2世紀)時代で、蘭亭序の真筆が最後に確認されたのは、唐の太宗皇帝(在位:626年-649年)の時代ですよ。太宗の死後には、彼の陵墓に副葬されたと伝わっていますが……それからは、誰も真筆を見ていないんです。

それなのに、649年から1592年にこの《蘭亭図巻(万暦本)》が作られるまで、そんなに大きな違いもなく伝わってきたというのが凄いなと。おそらく石版とかで伝わってきたのでしょうけど、凄いなと。まぁその凄さを感じられただけでも、画像ソフトで5版を重ねて見た甲斐があったというものです。

ということで、5種の蘭亭序の次には「李公麟の作にもとづく蘭亭図」が続いていて、今回の展示は、ここから展示されています。で、2年前だかに《蘭亭図巻》を見た時には、李公麟を知らなかったか、単に見逃していただけなのか分かりませんが、認識していませんでした。これって、李公麟さんの「作」っていうのがどんなものか知りませんが……「その作にもとづく絵」ということ。

李公麟さん(1049年 - 1106年)といえば北宋時代の、文人であり画家である方。特に画家としては評価が高いにも関わらず、真筆と言われる作品が現在はトーハク所蔵の《五馬図巻》の1点しかないという方です。

そんな李公麟さんに関連する絵だったとは……という「蘭亭図」が以下になります。

《蘭亭図巻(万暦本)》
原跡:王義之(303~361)他筆|中国|明時代・万暦20年(1592)|紙本墨拓
高島菊次郎氏寄贈

上は王羲之さんが、半分酔っ払いながら「蘭亭序」を書き始めようとしている姿を描いています……たぶん。

《蘭亭図巻(万暦本)》
原跡:王義之(303~361)他筆|中国|明時代・万暦20年(1592)|紙本墨拓
高島菊次郎氏寄贈
《蘭亭図巻(万暦本)》
原跡:王義之(303~361)他筆|中国|明時代・万暦20年(1592)|紙本墨拓
高島菊次郎氏寄贈

曲水の宴で、多くの文人が描かれていますが、その中の王羲之さんを描いたのが、これ↑ です。ちゃんと、さっきの顔と雰囲気が似ていますね。

そして王羲之さんのイラストの上に「右将軍王羲之」と書いてあるのが……実はなんだか分かりません……。これ、なんでしょうね。次回の課題とすることにします。

↑↓ 王羲之と名前が似ているので撮っておいた「王凝之(おう ぎょうし)」さん。王羲之の第2子だそうです。単に音だけで「オーギョーチー(愛玉子)」を思い出してしまいました。

ということで、以下も詳細を調べていこうと思いましたが、ギブアップです。撮ってきた画像と、トーハクの解説パネルだけ残しておきます。おそらくここまで読んでくれる方もかなりマレだと思いますが、お付き合いいただき、ありがとうございました。

■《国学本蘭亭序 TB-1353》

原跡:王羲之(303~361)筆|中国|原跡:東晋時代•永和9年(353)|紙本墨拓
高島菊次郎氏寄贈

明の万暦年間(1573〜1620)に天師庵から出土した定武本系統の蘭亭序の帖石は、国学(国立大学)に保存されたことから、その拓本は国学本蘭亭序と称されます。帖石の損傷により不鮮明な箇所が散見されますが、伝存する作例は少なく貴重です。清末の広東の収蔵家、孔広陶の旧蔵品。

■臨蘭亭序巻

《臨蘭亭序巻 TB-1562》
永瑢(1743~90)筆|中国|清時代・乾隆52年(1787)
紙本墨書
林宗毅氏寄贈

乾隆帝の第六子の質荘親王・永瑢が、『蘭亭八柱帖』第一本(張金界奴本蘭亭序の刻本)を臨書したものです。細身の線と大回りの転折で文字内の余白を広くとり、点画の配置も変えています。原本よりもゆったりと安定した字姿には、宗室の気品が漂います。

■《淳化閣帖巻第六 TB-1379-6》

《淳化閣帖巻第六 TB-1379-6》原跡:王義之(303~361)筆、
王著(生没年不詳)編|中国
原跡:東晋時代・4世紀、編纂:北末時代・淳化3年(992)
紙本墨拓
高島菊次郎氏寄贈

淳化3年(992)、宋の太宗が内府所蔵の歴代の名跡を、臣下の王著に命じて編纂させた集帖。全10巻のうち第6~8に王義之、第9、10に王献之の書を収めます。二王の書が全体の半分を占め、時、歴代諸家のなかで最も尊重されたことがわかります。巻第六は王義之の草書を主とする59帖を収録。

■《停雲館帖巻第一 TB-1382-1》

原跡:王義之(303~361)他筆、文明(1470~1559)編
中国|原跡:東晋~唐時代・4~9世紀、編纂:明時代・16世紀
紙本墨拓
高島菊次郎氏寄贈

文徵明が晋~明の名跡を精選した法帖。摸勤は文徵明と子の文彭文嘉、鐫刻(せんこく)は章簡父ら名手があたり、内容と模刻の質から名帖と評されます。10巻本(本作)と12巻本があります。巻第一は、王義之の黄庭経、楽毅論、東方朔画賛、孝女曹娥碑や王献之の洛神賦十三行など、晋唐の小字の書を収録します。

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かわかわ
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