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千葉市にある「加曽利貝塚遺跡」って、とんでもないところだった! 土偶の顔ばかり見てきました。

今週末の三連休……1日目は東京国立博物館(トーハク)の月例講演会へ行き、2日目は松戸市立博物館の企画展『異形土器 縄文時代の不思議なうつわ』を見に行き、3日目には千葉市立加曽利貝塚博物館へ『市原歴史博物館×加曽利貝塚博物館2024―縄文時代の土偶の顔―』を目当てに行ってきました。(注:加曽利貝塚博物館での『縄文時代の土偶の顔』展は、すでに閉幕しています)

以下、プライベートな日記が続くので、お急ぎの方は下記「目次」から、好きなところへ飛んでいただければと思います。


この三連休は「どれだけ博物館ブームなんだよ」……と、自分でも呆れるほどに博物館三昧で過ごしてしまいました。ちょっと1つの趣味に集中し過ぎなので、ほかに趣味を作ろうと思う今日このごろです。

いちおう2日目は松戸の博物館から帰宅後に家族と外食し、さらに夜は近くの公園で、息子とサッカーをしました。3日目は、いちおう家族とクルマで加曽利貝塚へ行きましたが、現地で解散……わたしは博物館を見て回り、家族は梨とぶどう狩りへ行ったそうです。その後に家族で再集合し、貝塚公園で息子とサッカーをして汗をかいた後に、近くのスーパー銭湯「蘭々」へも行ってきました。家族サービスを“した”というか、“された”というか……まぁちょうど良い感じだったような気がします。

■久しぶりの千葉市……

わたしは、小学2年生の頃から大学生の頃までは千葉県の柏で育ちました。チーバくんで言うと、柏は鼻先のあたりで、加曽利貝塚(千葉市)は喉元あたりということになるでしょうか。今は知りませんが、わたしが住んでいた頃は、チーバくんのこの鼻の黒いエリアって、あまりほかの県内のエリアと文化を共有していなかったんですよね。なぜかと言えば、この鼻を突き刺すように常磐線や高速の常磐道が通っていて、休みの日にどこかへ行くとなれば東京方面へ行くか、茨城方面へ行くかの2択で、チーバくんの口元や喉元に行くのは、ディズニーランドへ行くときくらいだったからです。

そんなこともあり、千葉県民だったのに、千葉市へ初めて行ったのは、県外に引っ越した後のことでした。

チーバくん

■加曽利貝塚は、想像以上に充実した施設

千葉市立の加曽利貝塚博物館は、千葉市の加曽利貝塚縄文遺跡公園の中にある施設です。博物館もありますが、縄文時代の貝塚や住居の遺跡が、そのまま残されているのを目の当たりにして、五感がブルッと震えました。

特に貝塚の貝層断面が見られる建屋の中に入ると、土の香りに包まれるんです。なんだか、貝塚の断層から滲み出てくる、縄文時代の空気を吸っているかのような感覚でした。

加曽利貝塚は、特別史跡というのに指定されているそうです。特別史跡が何なのかは分かりませんが、文字通り「特別の史跡」ということは間違いないでしょう。ではなぜ特別なのかと言えば、まずは日本最大級の規模の貝塚が見つかっている点。しかも、縄文時代の「中期の貝塚」と「後期の貝塚」とが隣接する場所で発見されている点が、とても珍しい……貴重なことのようです。

具体的には、下記のマップを見ながら解説します。まず北側にある水色の、直径140mのドーナツ状のエリアが縄文時代中期の遺跡になります(北貝塚)。そして南側の青色のエリアからは、縄文時代後期の貝塚などが発掘されています(南貝塚)。

同エリアは、約7,000年前から人が住み始め、約5,000年前の縄文時代の中期に、巨大な貝塚が形成され始め、約4,000年前の縄文時代後期に、貝塚が最大規模になったと考えられています。

そして、先述した貝塚の断層面が見られる施設が、北貝塚と南貝塚に一箇所ずつ設けられているほか、北貝塚には竪穴住居の遺跡も残っているわけです。

北貝塚の貝層断面
厚く積み重なった貝の層は、直径130mのドーナツ状に廻っている。貝層中には縄文人の使った道具・食糧とした魚や獣の骨などが混入しており、半時の人々の生活を知る貴重な情報を、多数提供してくれる。貝を捨てた様子、食べられた貝の種類などがつぶさに観察できる施設として、昭和43年この建物が作られた。
遺跡を保護し、発掘時そのままの状態が観察できるようにとの観点より、東京国立文化財研究所は、調査・研究・実験を重ね、アクリル・エマルジョンやバインダー18などの固定用樹脂を駆使して完成させた。
館では、その後の管理作業を続けるとともに、貝層の学術的研究を進めている。

加曽利北貝塚貝層断層面

その「加曽利北貝層断面」という建屋を通り抜けると、また別の建屋が見えてきます。「あれも貝塚が見られるのか?」と思って入ってみると……今度は住居跡……発掘した時のままの状態が残されていました(北貝塚住居跡群観覧施設)。こんな発掘した時のままの状態を残した施設、ほかにあります!? わたしは初めてみました(博物館に復元されたのは見たことがあります)。

奥が「北貝塚住居跡群観覧施設」

加曽利貝塚が破壊の危機にあった1962(昭和37)年、この地点の発掘により、縄文時代中期(約5千年前)のムラのあとや埋葬人骨、生活を物語る多量の遺物が発見されたことで加曽利貝塚の名前は一般に広く知られ、遺跡を保存する声が高まるきっかけとなりました。ここでは、縄文時代の竪穴住居跡や土坑、それを覆う貝層の断面等を発掘当時のまま保存管理し、通常は見ることのできない地下遺跡の様子を観覧することができます。

建屋内に保存された遺構を上から俯瞰したところ。観覧場所から見て写真の下が手前で、上が奥の方。

この場所では、竪穴佳居跡や土坑等が複雑に多数重なって密集していることがわかりました。縄文時代中期(約5千年前)の竪穴住居内に、柱を建てた穴が複数発見されていることから、同じ場所で何度も建替えが行われたと考えられます。
縄文時代後期(約4千年前)になると再び人々が住居を建てたり、貝を積み重ねる等の生活の場として繰り返し利用するようになり、限られた空間を上手に活用していた様子がうかがえます。

こんな感じで柱が建っていたんじゃないかというイラストを、実際の遺構に重ねて見られるようになっています
上の写真と違う角度から遺構を広角レンズで捉えた写真。写真の左のあたりなのか……貝層を掘った掘った穴の中に、およそ20代の女性が埋葬されていたそうです(発見された)。ちなみに加曽利貝塚では、これまで約230体の人骨が出土。加曽利貝塚のほかのエリアでも、貝層の中から人骨が見つかっているため、何らかの意図をもって意識的に貝層に埋葬されたと推測されているそうです。

さらに別の場所……南貝塚エリアにも、博物館を観覧した後に見たのですが、貝層断面観覧施設があります。

先ほどの北貝塚エリアにあった観覧場所と同じように、中に入ると秋めいてきた外よりもモワァ〜っとした空気になります。通路の両側には貝層が60mくらい見られます。

そんなこんなで貝塚や遺構を見ながら、やっと今回の本命ともいえる「加曽利貝塚博物館」にやってきました。見た目がボロい……いやほんと、わたし思うんですけど、博物館ってボロくていいんですよ……もちろん空調施設の問題などもあって、建物が古いと遺物(展示品)を良好な状態で保存するのが大変だとは思うんですけどね……でも、一般には誰も来ないじゃないですか? 同館は、おそらく日本で有数の縄文時代専門の博物館ですけれど、それでも展示室に行列ができるほど混む……なんてことはないわけで(←推測です)。しかも入場料は無料……つまり千葉市民の税金で運営されているわけですからね。なんだか、この古ぼけたこじんまりとした雰囲気に、とっても好感を持てます。

館内は……もちろん館外もですが……撮影がOKです。すばらしいですね。

■土偶の数にびっくり!

ということで、色々と説明するのも面倒……というか、説明できる知識を持ち合わせていないので、ここからはザザザっと展示されていた土偶の写真を手当たり次第に貼り付けていきます。

どうにも、この企画展『縄文時代の土偶の顔』が、今回の開催限りで何も残らないとしたら……そんなことはないでしょうけど……もったいないなぁと。そこで写真が中心になりますが、企画展の、できるだけ全てをnoteしておきたいと思います。

土偶(どぐう)とはなに?
土は、縄文時代(約16,000年前~2,800年前)に粘土で創られた素焼きの土人形です。様々な形や表現がみられますが、多くが妊娠した女性をあらわしているといわれています。頭や胴体、手脚などは抽象的な表現をすることが多い半面、妊娠を連想させる乳房や腹部の膨らみ、妊娠線(正中線)といった具体的な表現もあります。人体表現の抽象化と女性の生殖機能を強調していることから、豊穣や多産などを祈ることが目的で、壊れてみつかることも多いので、病気やケガからの回復を祈るために使われたのではないかなど、様々な考えが研究者の間で議論されています。

解説パネルより

解説パネルには以上のように記されていましたが、今回の企画展「縄文時代の土偶の顔」で展示されているのは、市原歴史博物館と加曽利貝塚博物館が所蔵している「縄文時代後期の土偶」です。そのほとんどが、おにぎり頭の山形(やまがた)土偶で、そのほかに「みみずく土偶」と「遮光器土偶」が少しずつ発掘されたようです。

下の、手のひらを左右に広げたようなかっこうの山形土偶が、加曽利貝塚を代表するような、大事なもののように扱われています。ただし、ほかの土偶と同じように、ゴロンと寝かせられて展示されています。

《山形土偶》
縄文時代後期
千葉市加曽利貝塚(千葉市教育委員会蔵)

近くには、同土偶の特徴が解説された、実物よりも大きそうなパネルがありました。展示の見栄えはよくありませんが、とてもわかり易く特徴を掴めるので助かります。特に実物では全く見えない、土偶背面の様子が分かるのはうれしいです。

土偶の「顔」
土偶の「顔」がはっきりと表現されはじめたのは、縄文時代中期(約5,500年前~約4,500年前)頃からと考えられています。土偶が創られはじめた頃は、頭部や手脚はなく、膨らんだ腹と大きな乳房、腰から上のみが表現された例ばかりです。縄文時代中期の途中に、何らかのきっかけから顔や手脚が表現されるようになります。ただ、そのきっかけが何であったかは、今の研究では明らかになっていません。それでも、「顔」表現が多種多様になった縄文時代後期から晩期(約4,500年前~約2,800年前)の例をみると実に多くの表情があることがみてとれます。土偶の「顔」から縄文人の気持ちや思いの一端にふれることができるかもしれません。

解説パネルより
《中空土偶》
緷文時代晚期
千葉市内野第1遺跡(千葉市教育委員会蔵)

「内野第1遺跡」というのが、どんな遺跡なのか分かりませんが、どうやら加曽利貝塚の遺跡の近くにあるようです。展示されている中で、もっとも多かったのが、この「内野第1遺跡」からの出土品でした。

上の写真と同じ《中空土偶》

↓ 《山形土偶》の小さいカケラ……なのにちゃんと鼻の穴が2つあるんですね。

左が《山形土偶》で、右が……《山形土偶》
いずれも縄文時代後期・千葉市内野第1遺跡(千葉市教育委員会蔵)

一般に、お腹や胸の膨らみがあるからという理由なのか……土偶は女性をかたどったものと言われることが多いです。でも……上の写真↑の左の土偶は特にですが……膨らんでいるのは明らかに腹部ではないですよね。胸が女性を象徴しているとしたら、陰の茎は男性ということになります……となると、これらの土偶は雌雄同体ってことになるんじゃないかなと。

上の写真と同じ《山形土偶》
上の写真の左上の土偶2体
いずれも縄文時代後期・千葉市内野第1遺跡(千葉市教育委員会蔵)

フクロウの一種というか、フクロウとは別種なのかすらわかりませんが……「みみずく」に似ていることから「みみずく土偶」と通称されている人たちです。こればかりは感覚的なものですが、普段なじみがない「みみずく」ということもあり、「似てるか?」って、いつも思いながら見ています。

特に下の2つは、どこがみみずくやねん? と……。右の土偶は、目がちょっと……左目は取れて(欠損)してしまったんでしょうか……それとももともとこういう目だったんでしょうか。

《山形土偶》縄文時代後期・千葉市内野第1遺跡(千葉市教育委員会蔵)

これは妊娠しているお腹なのか……それとも陰の茎なのか……。右手が欠損していますが、ほぼ完成形ですね。顔がおにぎりみたいで、とても愛嬌があって好きです。

上の写真と同じ《山形土偶》

こうして見てみると、国宝に指定されるような土偶と比べて、とても作りが稚拙な感じがします。土偶の出土総数は2万点とも言われていますが、わたしはその中のわずかな数しか見たことがありませんが……こうした稚拙な作りの土偶の方が圧倒的に多数……というか、ほとんどがこのくらいの作りのような気もします。そう思ってみると、立派な作りの土偶よりも、稚拙な作りの土偶を見ていった方が、なぜ縄文人が土偶を作ったのか? 土偶を作った縄文人は、どんな生活や精神感覚を持っていたのか? が分かってくるような気がします。

《山形土偶》
縄文時代後期・市原市西広貝塚(市原市教育委員会蔵)
《山形土偶》縄文時代後期・千葉市内野第1遺跡(千葉市教育委員会蔵)
《山形土偶》縄文時代後期・千葉市内野第1遺跡(千葉市教育委員会蔵)
《山形土偶》縄文時代後期・千葉市内野第1遺跡(千葉市教育委員会蔵)
上の写真の右上にある《山形土偶》
縄文時代後期・千葉市内野第1遺跡(千葉市教育委員会蔵)
《山形土偶》縄文時代後期・千葉市内野第1遺跡(千葉市教育委員会蔵)

↑ こういう後から付けただろう「目」が、よく取れずに残っているなぁと感心してしまいます。「耳」もですけれど、ペタッと貼り付けるだけで、取れないもんなんですかね。

いずれも《山形土偶》縄文時代後期・千葉市内野第1遺跡(千葉市教育委員会蔵)

↑ 右側の土偶には、コーヒー豆のような目が付けられています。顔の形は山形なわけでもないですし……あえて分類するのなら「遮光器土偶」だと思うのですが……なんで「山形土偶」に分けられたんですしょうか。

《遮光器系土偶》
縄文時代後期・千葉市内野第1遺跡(千葉市教育委員会蔵)

↑ これを写真で見せるのは難しいのですが、形がユニークでした。この前日に松戸市博物館で見た異形土器に、似た形のものがあったような気もしますし……。

《みみずく土偶》
縄文時代晩期 千葉市内野第1遺跡(千葉市教育委員会蔵)
上と同じ《みみずく土偶》

■土偶以外も面白い……《人面付土版》や《人面付土器》

千葉市指定文化財《人面付土版》
縪文時代晚期千葉市内野第1遺跡(千葉市教育委員会藏)
千葉市指定文化財
《人面付土器(複製)》
弥生時代中期 市原市指定文化財 市原市三嶋台遺跡(市原市教育委員会藏)
《人面付土器(複製)》
《人面付土器(複製)》
《人面付土器(複製)》
《顔面把手(とって)》
縄文時代中期 市原市草刈貝塚(市原市教育委員会蔵)

■発見ほやほや? の「動物形土製品」

「博物館に収蔵された新資料を、急きょお披露目することとなりました。」と示されていたのが、伝 加曽利貝塚出土の動物形土製品です。

なんだか分かりませんが、手元に置いておきたくなるようなカタチです。ちょうど良い大きさなので、握っているだけでも気持ちが落ち着きそうな気がします。

解説パネルには、よく似た例は、縄文時代晩期初頭(約3000年前)の東日本を中心に出土しているそうです。よく似た例として、北海道の美々4遺跡出土のものと、さいたま市東北原遺跡のものが挙げられていますが……見てみると、相似点はあるものの、総合的には別モノな気もします。その2つの例から考えて、当品を“鳥”だと考える研究者も少なくないそうですが……色々と説明ができないのは、多くの土偶などと同様ですね。

似ているのは、「複数の沈線を組み合わせた渦巻き状の文様」が表現されている点のようです。この文様は、縄文時代晩期前葉の安行式土器に用いられているそうですが……では加曽利貝塚には、安行式土器が見つかっているのか? といえば、撮ってきたなかでは、下の《浅鉢形土器》が「安行3式」と記されていました。

縄文時代晩期前半 安行3式 千葉市加曽利貝塚(千葉市教育委員会藏)

出土例が少ないのでわからないことも多いですが、関東地方では住居から土偶や石棒などともにみつかることが多く、北海道や東北地方で墓からみつかった例があることから、縄文人たちの儀礼と深いかかわりを示す遺物と考えられています。

解説パネルより

この動物形土製品ですが、当初は企画展に展示しておらず、途中から展示され始めたようです。それだけ最近になって収蔵されたということのよう。ただし「伝 加曽利貝塚出土」と記されていることから、加曽利貝塚からの出土が確実なわけではなく、最近出土したものでもないということなのでしょう。研究者による論文のようなものがないか調べてみましたが、ネット上では見つけられませんでした。

ただし有志の方が、展示されていた動物形土製品から3Dモデルを製作されていました。あの展示から、こんなに精巧な3Dモデルが作れるなんて、ちょっと驚きです。(わたしは4-5枚の写真を撮りましたが、ピンがあっていたのは1枚だけでした……残念)

■企画展『縄文時代の土偶の顔』を見終わっての感想

加曽利貝塚から遺跡が初めて発見されたのがいつのころか分かりませんが、ハッキリと考古史に足跡が残されたのは、1887年(明治20年)のこと。この時に、考古学者の上田英吉さんが「下総国千葉郡介墟記(しもうさのくにちばぐんかいきょき)」という文献を学会に発表したことが、加曽利貝塚を全国に知れ渡る契機となったようです。

その後、大正13年3月に東京大学人類学教室によって、ABCDEの各“地点”で発見された土器の型式が設定されました。その中で加曽利B式土器と加曽利E式土器については現在も、考古学上の用語として使用されています。「加曽利って……なんか聞いたことあるなぁ……」とわたしが思っていたのも、上のように土器を見ているとよく見かける名称だったからでしょう。

そんな、知名度の高い遺跡も、太平洋戦後の高度経済成長期には、取り壊されて工場になってしまう危機を迎えました。そして昭和38年(1963年)には、整地作業が始まり、南貝塚の一部が破壊されてしまったそうです。これを機に、地元の市民団体……というと個人的には良いイメージがありませんが……保存運動を展開。Wikipediaによれば広範な市民の支持を得て、千葉市が、この用地を買い取って公園として整備することにしたそうです。

市民運動が契機となって作られた公園であり、博物館ということで、日本ではかなり珍しいケースではないかと思います。なんと言っても日本では、東京国立博物館をはじめ多くが、おかみが一般庶民に「これを見なさい。これが素晴らしいものの基準です」と言って作られた公立博物館が多いイメージがあります。公園を含む加曽利貝塚博物館は、そうしたほかの公立博物館とは一線を画す、市民が作った博物館……という雰囲気が漂っていました。まぁだからなのか、前述の通り施設はボロいし、展示ケースも古いものばかりです。おそらく開館当時と比較して千葉市民はむちゃくちゃ増えているだろうし、「加曽利貝塚? なにそれ?」っていう住民も多いと思いますが……それでも「市民が作った博物館」っぽい気概のようなものを感じる博物館でした。

現在、新博物館構想があるようですが……いきなりゴージャスな博物館にならないか心配です……。

わたしは博物館が大好きですけれど、一方では「公立の博物館や美術館が多すぎるな……しかも立派なのが……」と感じてもいて、「市民でさえも訪れないような公立の博物館や美術館が、こんなに存在して良いわけがない」とも思っているんですよね(だって税金で運営されているわけですから)。これが私立の博物館や美術館であれば、最近のDIC川村記念美術館のように、自然と淘汰されていくので良いのですが……公立は私立よりも閉館までのプロセスにタイムラグが大きく発生します。その中で、加曽利貝塚博物館は「こういう博物館を応援したいな」と思えるようなところでした。かといって……入場料が無料なので、どう応援すべきなのか分からないので、これからも(わたしの博物館ブームが続く限り…ですが)機会を見つけて伺いたいと思いました。

そして今回の「土偶の顔」企画展については、近くの市原歴史博物館との協力体制のもとで開かれたといいます。実際に、展示品の多くは「市原のほうで出土したものかな?」というものの方が多かった気がします。でも、こういう自治体を越えた取り組みというのも、公立博物館を持続させていくうえで重要だろうなぁと……いったいわたしは何目線で語っているのか分かりませんがw……。市原歴史博物館にも、ぜひ今年中に行きたいと思っています。

↓ 具体的には、10月12日から市原歴史博物館で始まる『旅する はにわ展』へ行きたいと思ったんですよ。12月15日までの開催……なんだか東京国立博物館で開催される特別展『はにわ』(10月16日~12月8日)と、ほとんど同時開催なんですよねw セットで行きたい!

はじめに
令和5年2月、加曽利貝塚博物館は、市原歴史博物館と相互の博物館資源の活用・協力・交流を図り、両館の発展と充実に寄与することを目指して、連携協定を締結しました。そして、令和5年度から連携協定の取り組みのひとつとしてテーマを設けた展示を行っています。
今回の企画展では、「顔」をテーマに、両市でみつかった縄文時代の土用などの表情や造形に焦点をあて、「顔」からあらわれる縄文人の表現力に迫ってみます。
令和6年7月 加曽利貝塚博物館

展覧会パネルより

一方、土偶に関して言えば、近年はベストセラー本があったこともあり、注目度が高まっていますよね。見ているだけで楽しいっていうのが良いですし、それだけの魅力を備えた古代の遺物だと思います。そして、こういう“土偶”というアイテムから、たくさんの人が考古に一瞬でも良いから興味を持ってもらえたらいいなぁと……わたしの興味がいつまで続くか不安のなか……思ってみたりしました。

おわりに
土偶の「顔」は、様々な表現があり、完全に同じものはありません。
横一文字の眉と鼻が一体化した表現や、横一文字が崩れ、顔の輪郭と融合し、ハート形になった表現。貼り付けた目や、横に線を描くだけの目の表現。貼り付けた口や、丸くへこませただけの口の表現。耳飾りを表現した穴があるのかないのか。いれずみのような多様な線表現があるかないのか。頭の後ろがとび出るか出ないか。使っている工具のちがいや、ひとつの表現の解釈のちがいを感じる例などその種類は様々です。
これは、土偶づくりのルールの中で許される、縄文人によるつくり手の個性のあらわれなのかもしれません。

展覧会パネルより

それにしても、本当に充実した時間を過ごせました。そんな加曽利貝塚博物館に感謝です。

と言いつつ、以上はいちおう「前編」という感じで考えていて、「後編」では、同館に展示されていた「土器」をnoteしたいと思っています。

ということで、このへんで……

加曽利貝塚博物館で10月8日から始まる加曽利E式土器の企画展もぜひ行きたい!


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