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あの!朱舜水の文書が東京国立博物館に展示されています (哦!朱舜水的文献正在东京国立博物馆展出吗)

現在(2023年8月27日)、東京国立博物館(トーハク)には、中国の明末期の人、朱舜水の書が展示されています。

現在(2023年8月27日),東京國立博物館(東博)正在展出中國明末的人物朱舜水的書。

朱舜水筆《服深衣議》江戸時代·17世紀|紙本墨書

朱舜水は、万曆28年……西暦では1600年の11月17日に、浙江省の紹興府、餘姚よよう県(現:浙江省餘姚よよう市)で生まれました。

朱舜水於萬曆28年,也就是1600年11月17日,在浙江省紹興府餘姚縣(現為浙江省餘姚市)出生。

日本史に照らすと、関ヶ原の戦いが起こった年なので、長く続いた戦国の世がようやく終わり、徳川政権が実質スタートしたところです。この頃の中国もまた、明朝が終わりを迎えようとしている時でした。そして朱舜水が44歳前後の頃……1644年……には、ついに明時代が終わり、その明を滅ぼした農民反乱の指導者・李自成もすぐに満州の愛新覚羅さんに殺されてしまい、同年に清王朝が誕生します。

从日本历史的角度看,这一年是关原之战爆发的年份,标志着长时间的战国时代终于结束,德川政权实际上开始了。而在那时的中国,明朝也正面临着结束的时刻。到了朱舜水44岁左右的时候……1644年……明朝终于结束,领导农民起义的李自成也很快被满洲的爱新觉罗家族所杀,同年清朝开始。

そもそも愛新覚羅さんが北京をたやすく攻略できたのは、万里の長城の東端にある要所、山海関の明の守将、呉三桂の手引があったからです。明の関係者からすれば、農民たちに支配されるくらいなら、満州民族に支配されたほうがマシだ……と考える人もいたということでしょうか。

首先,爱新觉罗家族之所以能轻易攻占北京,是因为有山海关,位于万里长城东端的要塞的明朝将领吴三桂的协助。对明朝的相关人士来说,可能有人认为被农民统治还不如被满族统治更好。

ともかく李自成が明朝を滅亡させたと言っても、全土を掌握したわけではなく、首都の北京を陥落させただけと言ってもいいでしょう。そして愛新覚羅さんによる清王朝が興ってからも、明の残党ともいうべき人たちが、中国南部を中心に各地にいたわけです。

不过,即使说李自成灭亡了明朝,他也并没有完全控制整个国土,只是攻占了首都北京而已。而爱新觉罗家族建立的清朝兴起后,应该称作明朝的残余势力的人们仍然分散在中国南部等各地。

そうした亡命政権を支えた一人が、長崎県の平戸生まれの、日本人ハーフの鄭成功(日本名:田川福松)です。鄭成功は父親とともに、南明の(亡命皇帝)隆武帝を支援しますが、清との戦闘で隆武帝を失い、父親は清に降伏します。それでも鄭成功は屈することなく転戦し、中国本土の海岸線や、当時はオランダの東インド会社が統治していた台湾などに勢力圏を広げようと試みます。

支持这样的流亡政权的其中一人就是出生于日本长崎县平户的日本混血人郑成功(日本名:田川福松)。郑成功与其父亲一同支援南明的隆武帝,但在与清的战斗中失去了隆武帝,他的父亲投降了清。但郑成功并未放弃,继续转战,试图扩大其势力范围,包括中国大陆的沿海地区和当时由荷兰东印度公司统治的台湾。

……朱舜水に話を戻しましょう。朱舜水はもともと明朝の役人だったわけでもありませんが、満州の愛新覚羅さんに支配されるのは嫌だったのかもしれません……1644年に清朝が興ると、鄭成功親子などによる明朝再興のための運動に参加します。彼は主に軍資金を得るため、日本やベトナムへ渡り、貿易などを行い、明の遺臣たちを援助していきました。

……让我们回到朱舜水的话题上来。朱舜水原本并不是明朝的官员,但他可能不太喜欢被满洲的爱新觉罗家族所统治……1644年清朝建立之后,他参与了由郑成功父子等发起的为了复兴明朝的运动。他主要是为了获取军资金,赴日本和越南进行贸易等活动,并援助明朝的忠臣。

Wikipediaによれば、明滅亡の3年後の1647年を皮切りに、日本だけでも1651年、1653年、1658年に、長崎に立ち寄っています。そして1659年7月、59歳の朱舜水は、明復興を期した南京攻略戦にも参加。この時の敗戦をもって、明の再興を諦めて、日本への亡命を希望します。

根据维基百科的记载,从明朝灭亡后的三年、即1647年开始,朱舜水至少在1651年、1653年、1658年曾经到访日本的长崎。然后在1659年7月,59岁的朱舜水参与了期待明朝复兴的南京攻击战。这次的失败让他放弃了明朝的复兴,并希望逃亡到日本。

亡命はすぐに認められませんでしたが、交流のあった筑後柳河藩の儒者の安東省菴の尽力によって、長崎奉行の許可を得て、1660年から61年頃に長崎に落ち着くことができました。

虽然他最初并未获得亡命的许可,但在与筑后柳河藩有交往的儒者安东省庵的努力下,他得到了长崎奉行的许可,并在1660年到1661年之间在长崎安定下来。

その後は、水戸藩の徳川光圀の知遇を得て水戸に移り住み、日本の儒学に大きな影響を与えたのです。後に水戸学の祖となる30代前半の水戸黄門からすれば、かの王陽明と同じ地で生まれた61歳前後の朱舜水は、神に近いような存在だったかもしれませんね。

之后,他得到了水户藩的德川光圀的欣赏并移居到水户,在日本的儒学上产生了深远的影响。对于那时三十出头的水户黄门来说,61岁左右的朱舜水,一个和王阳明出生在同一地方的学者,可能被视为一个接近神的存在。

朱舜水筆《服深衣議》江戸時代·17世紀|紙本墨書

さて……今回展示されている《服深衣議》については、その内容が把握できるような資料が、ネット上では見つけられませんでした。

那么……关于这次展览中的《服深衣议》,我在网上并没有找到可以了解其内容的资料。

ここからは、素人の推測ですが……《服深衣議》という言葉から、服装について記されていると思われます。その服とは「深衣」のことで、ここに記されている「深衣」とは、儒教を基にした儒服の一種のことだと思われます。

这只是我的业余猜测……但从《服深衣议》这个词来看,我认为它可能是关于服装的。这里所说的“服”指的是“深衣”,我猜想这里的“深衣”是基于儒教的儒服之一。

全く根拠がないわけではありません。ネットで読める、田 世民さんと榧木 亨さんによる『東アジア「家礼」文化思想研究をリードする大作 : 吾妻重二「朱熹「家礼」実証研究」を評す』という……何が記されているのか素人には全くわからないような論文には、下記のような文がありました。

这并非完全无根据。在我在网上读到的田 世民先生和榧木 亨先生的文章『东亚‘家礼’文化思想研究的领导者:吾妻重二‘朱熹‘家礼’实证研究’的评述』(这篇文章的内容对于业余人士来说可能完全不明白)中,有以下这样的句子。

中国のみならず,『家礼』の喪祭礼を受容・実践した近世日本においても,林羅山一家など少数の儒者たちが深衣に特別な興味を示したものの,一般的な儒者たちは大抵,深衣について消極的であったこと を指摘している。このことを示す例として,吾妻氏は徳川光圀が前関白の鷹司房輔に道服を贈呈した際の「若製之,則深衣為吉凶貴賤通用之正服,然全依深衣製之,則相見於異形,可略改深衣而新製矣(原 文:[何れにても古服に據り宜きにかなひ,]製し申候はヾ,深衣は吉凶貴賤通用の正しき服にて候へど も,全く深衣を移しては,異形に相見へ申候ニ付,少し深衣を取直候而新製仕矣)」4)(232頁,原文:637 頁)を引用し,深衣の様式に依拠してそのまま製作すると「異形」となるため,道服を製作することによりこれに代えたことを挙げている。また,光圀より類稀なる礼遇を受け,賓師として迎えられた朱舜水(1600-1682)は江戸に到着後,『深衣議』を著述しているが,結局,深衣を完成させることは無く, 野服と道服をその代わりとして使用していた(231頁)。水戸の徳川ミュージアムには,現在でも徳川光圀および朱舜水が着用していた道服が残されている

不仅在中国,即使在接受并实践了《家礼》中的丧祭礼的近世日本,像林羅山一家这样的少数儒者确实对深衣表现出特别的兴趣,但一般的儒者对深衣大都持消极态度。为了证明这一点,吾妻先生引用了德川光圀赠给前关白鹰司房辅的道服:“若是制作它,则深衣为吉凶贵贱通用之正服,但若完全按深衣的样式制作,则会看起来有些异形,可以稍微修改深衣后重新制作。”他还提到,尽管受到了光圀特殊的礼遇,并作为嘉宾老师被迎接的朱舜水(1600-1682)在到达江户后写了《深衣议》,但他最终并没有完成深衣,而是用野服和道服替代了它。在水户的德川博物馆,现存有德川光圀和朱舜水穿过的道服。

よりいい加減な推測を進めていくとすれば、《服深衣議》は、例えば徳川光圀などから「これから儒教をもとにした儀礼において、日本人はどんな服を着るべきでしょうか? やっぱり深衣なんかを着た方がいいッスかね?」と問われて、朱舜水が「深衣とは」という論考を記したもの……かもしれませんね。

如果进一步进行不太严肃的推测,那么《服深衣议》可能是像德川光圀这样的人问:“在基于儒教的仪式中,日本人应该穿什么样的衣服?我们应该穿像深衣这样的衣服吗?”朱舜水可能对“什么是深衣”这个问题进行了思考并写下了论述……也许是这样。

わたしはほとんど文字を拾えませんが、先の論文中の、徳川光圀が鷹司房輔に道服を贈呈した際の考えが、この《服深衣議》に記されているんじゃないかなぁと。

我几乎不能理解那些文字,但我猜想,德川光圀送给鹰司房辅的道服时的思考,可能被记录在了这本《服深衣议》中。

つまりは「深衣を着ることには反対です。なぜなら深衣の様式に依拠してそのまま製作すると、あまりにも異形となります。もし、どうしても儒教や陽明学のアイデンティティを服で著したいのであれば、道服が適当かと思われます」といった内容ではないでしょうか。

也就是说,内容可能是这样的:“我不赞成穿深衣。因为如果完全按照深衣的样式来制作,那将显得过于异形。如果真的想通过服装来展现儒教或阳明学的身份,我认为道服可能更为合适。”

以上、わたしの憶測ばかりになってしまいました。できれば何が書かれているのかは分かれば良かったのですが…。今後、内容が判明したら、改めて書き直したいと思います。

以上,都是我个人的猜测。如果能知道书中写了什么就好了…。未来,如果内容得到确认,我希望能重新撰写。

<参考資料>
https://www.kansai-u.ac.jp/Tozaiken/publication/asset/bulletin/48/kiyo4802.pdf

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