映画『窓辺にて』の感想と考察
今泉力哉 監督の『窓辺にて』を鑑賞して、ごくごく個人的な感想とか思うところがあったので、まとめてみることにしました。
端的に述べると、とても共感できて温かい気持ちになれて、登場人物全員が愛しく思えて。そんな映画に出会ったことで、普段はぐずぐずとしている朝にすっきりと目覚められるくらいに、ずっと興奮している。
そして、優れた作品を観たあとは「自分も何かやらなきゃ、やりたい!」という前向きな気持ちにしてくれるよなあ、という沸々として消えてくれない衝動に駆られてこの文章を書いています。
もしよろしければ、ご覧ください。
以下、考察に伴ってラストシーンの詳述も含みますので、未鑑賞の方は自己判断でお願い致します。または、鑑賞後の振り返りとしてご覧になることをオススメします。
感想
じっくりと、やんわりと自分のいま在る姿を肯定されたような気持ちになった。
私は、これまで映画や小説、マンガなど多くの物語や心の表現に触れてきたつもりだけれど「創作物に心を救われた」という自覚がほとんどなかった。「救われた」というと大袈裟な表現だけれど、そういう意味で『窓辺にて』は、私の心を少しだけ軽くしてくれたと思う。
自分と同じようなことで、悩んだりもがいたり全部受け入れたみたいなフリをしながら生きている人がいることが、稲垣吾郎さん演じる市川茂巳というキャラクターが存在することが、とても愛おしくて安心する。勇気づけられる。
私にとって、そういう映画だった。
市川茂巳は、限りなく、私だった。
茂巳は「不倫をされても、怒りを感じない。その事実が悲しい」と語る。「感情に乏しい」とも。心の中で、首がもげるほど大きく頷いていた。
このセリフが飛び込んできて「彼と同じ立場に立った時、もしかしたら自分も何も感じないのではないか?」と疑ってしまって、そういう可能性が1%でもある、という事実が私を動けなくさせた。
もちろん不倫をした経験も、された経験も無い。
けれど、そういう実態のない「もしかしたら」の根拠みたいなものは、映画を観る前からもやもやと私の中に沈殿していて。
常識から外れてしまう焦りなのか、同士に出会えた安堵なのか、渦巻く感情に今も答えを出せないまま「感情が、人に対する興味が欠落しているかもしれない」という事実とにらめっこしている。それは変わらない。
「自分には感情というものが無いのではないか」と、思い悩んだことが小さい頃から何度もある。物語に触れて、人との関わりに際して、なんで涙が出ないんだろうとか、想いや気持ちは昂っているのになんで素直な言葉が出てこないんだろうとか。薄いスクリーンを一枚挟んで出来事を眺めているみたいに、隣で感情豊かに自らを表現している人を、目の前で起こる事象を、どこか他人事のようにしか思えないのはなんでだろうとか。
人間にとって大切な感情が欠落しているのから? どこかで人を見下しているから?
ずっと、ずうっと考えていたことが、目の前でセリフになり、音になり、物語として視覚に、聴覚に飛び込んできた時、大きな感動は無かった。
けれど静かに、確かに私の中で礎となって、いつまでも残り続けることを確信した。少しだけ、ふわりと、心が浮き足立つ。
だいじょうぶ。生きている。生きていける、と思う。
あの日『窓辺にて』を観たことが、頭の隅にいつまでも。
茂巳さんが悩んで、紗衣さんが惑って、留愛が眩しくて、マサが真っ直ぐで、ゆきのさんが強くて、円が切実で、優二が無垢で、なつが哀しくて、カワナベが魅力的で、ハルさんが笑っている姿を、すべて愛おしく思う。
いつまでも、愛おしく思う。
失恋ソングは、最高のラブソングに
留愛が、元彼優二くんに荒川円の小説『永遠に手をかける』を渡した意味を考える。劇中でも触れられていたけれど、もしも彼女が、まだ彼のことを好きだと仮定するなら、思い当たることがある。
私は、ずっと「失恋ソングは、最高の愛情表現」だと思っている。
恋人の前で、失恋ソングを歌うことについてどう思いますか?「恋人とカラオケに行って、失恋ソングを歌うなんてあり得ない」というのが一般常識だと思う。
でも、私はそんな言葉なんて無視して歌うと思う。なぜなら、前述の通り「失恋ソングは、最高の愛情表現」だから。あなたのことが、こんなにも好きという想いを込めて。あと、普通に失恋ソングが好き。
RADWIMPS『me me she』、チャットモンチー『染まるよ』、My Hair is Bad『恋人ができたんだ』、HY『366日』などなど……。
先に挙げたのは楽曲だけれど、どの創作物にも転用できると思う。
失恋を題材にした物語は、他のどんな愛情表現にも勝る。
別れた恋人に対する、叶えられなかった願望とか、満たせなかった後悔とか、はげしい憎悪とか、やるせなさとか、未練タラタラで、どこにも行き場が無くなったものの集積地だから。
だから逆説的に、積もり積もった想いの丈は「最高の愛情表現」になるのだと思う。
さて、留愛が渡した本の内容は、不倫もの。
著者である荒川円の体験を元にしているから、誰も幸せになっていない。劇中の言葉を借りるなら「書いたら、過去になってしまった」から。でもそのぶん、実らぬ恋、禁断の恋、そして果ての失恋に対するはげしい想いが、愛情表現として美しい筆致で描かれているという。
「留愛は、優二とヨリを戻したいくらいに好き」だとすれば、あの本の受け渡しはそういう意思表示なのだと思う。ただ、作中で自分の意見を結構はっきりと伝えていた彼女の性格からすると似合わないなとは少し思う。
でも、最高にクールでキュンとする意思表示だ。
まわりまわって、知らない誰かに
最後のシーン。
茂巳はパフェを2人分注文しかけて、やっぱり1つと訂正して微笑んだ。
なんだろうこのシーンは、と引っかかっていた。
そうして思い当たる。
彼は思わぬところで「自分のことを知らない他人に悩みを相談した」形になったのだ。
荒川円の書いた小説『永遠に手をかける』を通して「不倫されたのに、何も感じない人」に対する忌憚のない批判を、優二からぶつけられた。目の前で、コーヒーを嗜む茂巳こそがモデルとなった人物であるとは露ほども知らぬ若者に「お前の心は、おかしい!」と。目の前で自分の代わりに怒ってくれる人、感情をむき出しにしてくれる人の存在は大きい。
大きくて、強い言葉だからこそ、それだけではショックも多少あっただろうけど、同時に不倫をした妻への批判もされたことが、茂巳にとって心を軽くする要因になったのだろうとも思う。
離婚という選択が果たして本当に正しかったのか、まだ悩んでいたとしたら「正しかったのだ」と納得する材料になっただろう。彼女のことを思えばこそ、これで良かったのだと、きっと彼はそう考える。
ずっと親しい人にも、誰にも打ち明けられずに一人で悩んで、もがいて、苦しんだ果てに「離婚」という結末にたどり着いた彼に、もうひとつのエンディングが。
それであの笑み、納得できる。
さいごに
感想にも書いたけれど、市川茂巳は限りなく私だったし、私は稲垣吾郎になりたいと思った。敬称略ですみません。
SMAPの人、おじさんと同棲している不思議な人という印象しかなかったのだけれど、すごく素敵で魅力的だった。
口を悪くして包み隠さず言えば、仕草とか佇まいが嘘くさく「演技している」感が見え隠れしている……?という印象を受けたのだけれど、それがフックになっていて彼から目を離せなくなっていた。誠実で、人間関係に不器用で、正直すぎる人となりが醸し出されていて、カメラを構える姿とか、ベッドに潜るチャーミングさとか、言葉を選んでいる間とか、相手を悩ませてしまったり傷つけるだろう言葉は意識して言わないところとか、すべてが愛おしくて、自分もこうなりたい!と最終的には思わされた。
すごい俳優さんだと思います。
彼になりたい。彼のような歳のとり方をしたい。
拙くて、思い込みの激しい文章であったと思いますが、ここまで読んでくださった方、ありがとうございます。
心に深く優しく残る、貴重な映画体験でした。