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エッセイ ゴッホの手紙

*はじめに
「書けない感動などというものは、皆嘘である。
ただ逆上したにすぎない。」

新潮文庫 小林秀雄「ゴッホの手紙」p9

小林秀雄の「ゴッホの手紙」についての
感想です。
文章中の引用はすべて「ゴッホの手紙」
からの引用です。

ゴッホの星月夜のアートポスターを購入し、
部屋に飾った。

・星月夜
・ローヌ川の星月夜
・夜のカフェテラス

の3枚を購入した。

額を百均で購入して(何でもありますね)
壁にかけてみれば、
いつでも絵を眺める事が出来て、
一人で鑑賞を愉しむには十分だ。

星月夜、
夜に染まった真っ黒な糸杉、
空には星月が黄色に白に渦を巻き、
ひっそりと佇む街を覆い尽くす。

ローヌ川の星月夜、
川面に街の灯りが反射して
放射状に揺らめき、
空には北斗七星と思われる星が
街の灯りを見下ろしている。

夜のカフェテラス、
ゴッホの黄色に彩られた
カフェの灯りが照らすお客たち、
街の奥の暗がりから馬車が浮かび、
空には星が輝いている。

3枚とも絵全体を群青色と黄色が占め、
筆の一筆一筆を絵に見る事が出来て、
ポスターといえ、
観ていて飽きることがない。

例えば僕のような素人が何かの文章を
書こうとしたときに、大体のストーリーは
考えたとしても、
とりあえず、一気に書いてみて、
要らない文章を削る作業をしないと、
完成には程遠い。

しかも、削り過ぎたり、
そもそも足りなかったりするので、

試行錯誤が甚だしく、
とても時間がかかる。

まあ、当たり前だろう。

ゴッホはいう、

「或る楽な筆使いを物にするということは
難しい、これは疑えぬ真理だ。
仕事を止めると、折角苦労して達した
この楽な筆使いを、
たちまちやすやすと失ってしまうだろう。」

新潮文庫 小林秀雄「ゴッホの手紙」p194

この「楽な筆使い」とは、一矢も違わず、
始めから完成した絵が見えていて、
指が勝手に動くという境地に違いない。

ちょうど、音楽家のモーツァルトが、
頭の中で完成した楽譜が出来ていて、
それを譜面に書き写していくように。

天才とは、このようなものなのだろう。

小林秀雄の「ゴッホの手紙」を読んだ。
本屋でぶらぶらと本を探しているときに、
小林秀雄の本が並んでいたので、
目当ての本があるかと見ていた時に、
見つけた。

確か「ゴッホの手紙」は高校の教科書に
載ったことがあるんじゃないかと思う。
記憶が怪しいのだが、うっすらとそんな
覚えがある。

学生時代に読んだ覚えのある本に
興味を惹かれ、手に取ってパラパラと
見ていくと、
ゴッホの絵の写真もついている。

僕は絵のことは全く分からない素人だ。
それでも分からないなりに関心はあって、
少し前までTVの「日曜美術館」を見たり
した。

昔、フェルメールの「天文学者」が
来日展示されたことがあって、
わざわざ見に行ったこともある。

でも正直、絵の良し悪しは分からない。
もちろん、素晴らしい絵だと思うし、
美しいとも思うのだけど。

絵の前に進む。
立ち止まって、絵を眺めてみる。

精工無比に描かれた絵を眺めていて、
絵の世界に引き込まれる。

何か塗られた絵の具の一筆一筆から
画家のこめられたものを感じる。

どの絵を見ても、油絵の絵の具の厚みから
ひと塗り、ひと塗りにかける思いを感じ、
少し怖いとも思う。

僕は油絵を描いたことがない。
真っ白なキャンパスに最初の一筆を入れる時
画家は一体何を思うのだろう。

無限の白に有限の一筆を入れるのだ。
そこに怖さがなければ、嘘だろう。

真っ白な原稿用紙に何を書くのかは、
僕の筆に任されている。

無限に文字はあり、言葉はあり、
その組み合わせも無限にある、
けれども、何を選ぶのかは
僕に託されている。

僕の筆が言葉を綴り、
文章として生まれるとき、

それは、
まっ白なキャンパスに一筆を入れるのと
同じだと思う。

なぜ、こんな絵が描けるのか。
知識や、技術や、
経験の積み重ねだとしても、

一目見て、
忘れられない絵を描くことは、
そのどれにも当てはまらないだろうと
感じる。

誰かに認められたいのではない、
誰かに分かって欲しいのでもない、

では、なぜ描くのか。

ひたすら、自分であり続けるために、
自分の内なる声を形にしないと、

その声に囚われて、ずっと考え続けて、
押しつぶされそうになるから、
描き続ける。

僕はなぜ書くのだろう。

画家のような、高尚さは僕にはない。
素人文章なのは、わかってる。

僕は僕の分身を残しているのだ。

誰が何と言おうとも、
僕が書いた文章は、
その時の僕にしか書けないもので、
精一杯の作品たちだ。

ありがたいことに読んでくれる人がいて、
こんなにうれしいことはない。

例え、
僕がこの世界からいなくなっても、

僕の文章たちはこの世界に残り続けて、
読んでる誰かには、
僕がいるのと変わらない。

僕はあなたに会えたことがうれしくて、
あなたのために書き続けて、
僕がいなくなったとしても、
あなたのそばに居続ける。

僕は独りでも、
文章を書き続けている限り、
淋しくはない。

それは読んでくれるあなたがいるから。

あなたのために僕は書いているし、
僕はここにいる。

本を読み始めたときは、
ゴッホの手紙は、弟のテオ宛に出された
ものだということしか知らなくて、

その弟の妻が、ゴッホの手紙を
書簡集として纏めたものだと、
読み進めていく中で、分かった。

なぜ、この書簡集がたくさんの人を
感動させているのかは、まだ知らない。

小林秀雄は、あの天才詩人の中原中也の
友人で、批評家で本もたくさん書いており、
今でも書店に「考えるヒント」は良く
並んでいる。

この小林秀雄が、
とある美術展に用があって出掛けたときに
運命的な出会いをした、

ゴッホの「烏のいる麦畑」の模写を
見たという。
その絵を見た小林秀雄はその場に
座り込んでしまったといっている。
それほどの衝撃を受けたと。

この「烏のいる麦畑」はゴッホの絶筆で、
この絵を描いたあとにゴッホは
自殺している。

「私は、オランダで彼の最後の作品
『麦畑』を見た時、この絵の裏側に、
『私の理性は半ば崩壊した』と弟に報告
した手紙の文句をまざまざと読んだ。」

新潮文庫 小林秀雄「ゴッホの手紙」P232

ゴッホは、アルルでゴーギャンと共同生活
をしているときに、ケンカの末に、
耳を切り落とし、精神病院に入院する。
このアルルでの共同生活中に有名な
「向日葵」の絵が描かれる、

実はゴッホを有名にした数々の絵は
精神病院に入院してから、自殺するまでの
2年程の間に描かれたものだというから
驚く。

「今日、普通、私達がゴッホの絵として
賞賛している多数の作品は、最後の二年半
ほどの間に、異常な速度で描かれたもの
である。
それも、精神病と戦っての仕事であり、
彼が精神病院から自由になって仕事が
出来たのは、合計一年間ほどしかない。
これは驚くべき事実だ。」

新潮文庫 小林秀雄「ゴッホの手紙」P229

僕は「ゴッホの手紙」を読んで、
今このときも、感動している。

始めは小林秀雄の解説めいた文章が
あるものの、
後半に入ると、ゴッホの手紙の抜粋だけが
連なり、精神病に苦しみながら、
仕事だけを心の支えとして、
弟テオ宛に書き続ける手紙は、
孤独だったゴッホの叫びを見るようだ。

「ゴッホの手紙」を読み終わり、
ゴッホが特に関心を寄せた糸杉の絵の
ポスターでいいから欲しいと思った。

ゴッホは糸杉について、手紙で語っている。

「僕の考えは糸杉でいつも一杯だ。
向日葵のキャンバスの様なものを、
糸杉で作り上げたいと思っている。
僕が現に見ているようには、まだ誰も
糸杉を描いた者がないということが、
僕を呆れさせるからだ。
線といい均衡といい、エジプトの
オベリスクの様に美しい。
緑の品質は驚くほど際立っている。
太陽を浴びた風景中の黒の飛沫だが、
その黒の調子は、僕に考えられる限り、
正確に叩くには最も難しい音
(ノオト)だ。」

新潮文庫 小林秀雄「ゴッホの手紙」p161

「星のある糸杉、最近の試みだ
ー 光のない月がある夜の空、
地球の不透明な投影から辛くも現れた
細い三日月、
ー 強く光る星、お望みなら、
きれぎれの雲の走る紺青の空に、
薔薇色と緑色に柔らかく光らせてもいい。
下方には、植物の高い黄色な茎に
縁どられた道、その後方には青いアルプス
の前山、窓に黄色な灯りをつけた
古い宿屋、非常に高い糸杉、非常に、
真っすぐな、非常に暗い糸杉、
道には白い馬に曳かれた黄色い荷馬車。
君ならひどくロマンチックだと
言うだろう。しかしプロヴァンスとは
これだとも僕は思う。」

新潮文庫 小林秀雄「ゴッホの手紙」p189

最後に、小林秀雄がゴッホの手紙について、
以下のように評価しているのを紹介して
終わる。

「ゴッホの言語的表現には、全く比類を
絶したものがある。
手紙の終わるところから、絵が始まり、
絵の終わるところから手紙が始まる。
そういうより他ないもの、言わば、
人間には人間を超える或るものが在る、
という強い鋭い感覚を、
もしゴッホの絵を愛している人々が
この書簡全集を読めば、得る事が出来る
と、私は思っている。」

新潮文庫 小林秀雄「ゴッホの手紙」P233

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