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短編小説 ボタン

*はじめに
この物語はフィクションです。

世界はすでに満員だった。この星の定員を
オーバーしていた。水や食料、エネルギー
など、あらゆる資源が不足し、争奪戦が
激しさを増し、あちこちで戦争がおきて
いた。
世界のリーダーたちはこの事態を深刻に
受け止め、緊急の国際会議が何日も何日も
続けられた。その結果、緊急措置として、
世界はひとつの政府となった。
人類が始まって以来、初めての事である。
この世界政府によって人々は平等に職業が
与えられ、平等に食事が分け与えられ、
時期が来ると平等に死んでいった。
定員オーバーとなったこの星の少ない資源
を皆で分かち合うにはこうする以外なかった。

この事態に憂慮したある科学者がひとつの
解決策を提示した。ボタンである。
このボタンは押した本人をこの世界から
初めからいなかったことにする。
科学者はいう。

「このボタンを押せば押した本人は消滅、
簡単にいえば、生まれなかったことに
なります。これは小さなタイムマシン
なのです。ボタンを押すとランダムに設定
された西暦年、たとえば西暦1500年などに
タイムワープします。戻ることはできません。
実験によってわかった事ですがタイムワープ
した本人が戻れないことが確定すると、
元の時代ではいなかったことになるのです。
私はこのボタンを手始めに100個程作り
ました。そして世界のあちこちに落として
おきました。きっとあなたも見つける
でしょう。ボタンを押すかどうかはあなた
次第です。」

この話しは、またたく間に広がったが、
誰もこの話しを確かめるすべがない。
やがてこの科学者は行方不明となり、
この話しは人々から忘れ去られた。

僕は30代の独身だ。結婚したことはない。
僕だけではない。この不安定な世界で結婚
して安定した生活を求めることはもはや
困難だった。政府から与えられる仕事、
与えられる食事、与えられる死期。
同じ毎日が繰り返される日常。

僕は何も考えない、何も感じない、
空っぽだ、僕は空っぽだった。
恋など知らないし、愛など遠い世界の出来事
だ。僕のような人が多いのか、結婚すること
を選ばない人が増えていった。
これによって世界の人口は着実に減少した。
けれども僕たちの数が多すぎた。
落ち着くまで、どのくらいかかるかは
誰にも分からない。

僕たちはある噂を耳にするようになった。
ある「ボタン」の噂。
そのボタンを押すと、どこか別の場所に
いけるらしい。そしてその場所で生涯
暮らせるらしい。誰にも見つかることなく
誰にも探されない。僕はそのボタンを探す
ようになった。
ボタンを探していろいろな人との出会いを
経て、僕は一人の女性と知り合った。
彼女も僕と同じく、ボタンを探していると
いう。僕たちは意気投合し、一緒にボタンを
探しているうちに、いつしかお互いを愛し
合うようになっていた。

僕の目の前にボタンがある。
そのボタンは彼女の手の中にあった。
僕たち二人で協力して、
やっとのことで探し当てたボタンだ。
彼女の目は僕を見つめている。
僕も彼女を見返している。
僕たちの未来は閉ざされている。
前に進むことなどできない。

彼女は言う。
「私たちはこの世界では生きていけない。
だからこのボタンを押して別の世界で
生きていきましょう。」

僕はボタンを見つめる。このボタンを創った
博士の意図はわからない。
この世界からの脱出。この世界に存在しない
ことになることで後に残った者が苦しまない
配慮もされている。全てが都合よく創られて
いた。

随分前からこのボタンについて疑問を抱いて
いた。探しているうちにやがては分かるかも
しれないと思っていたけれど、結局は分から
ないままだ。
世界政府が出来た目的は増えすぎた人口の
調整のはずなのに、なぜこのボタンは量産
されなかったのだろう。逆にこのボタンを
必死になって回収しているのはなぜだろう。
仮にボタンを押したとして、噂通り別の世界
でやり直すことなど可能なのだろうか。
これはあくまでも僕の妄想で、確かな証拠
などどこにもない。だけど僕はこう思うんだ。
このボタンは世界の消滅が目的なのでは
ないか。
ボタンを手にした人は押さずにはいられ
ない。ボタンそのものがもつ誘惑。
誰もがこの世界から逃げ出したいと思って
いる。このボタンの誘惑から逃れられる人
などいない。回収している世界政府さえも。
ボタンを押した先については何の保証も
ない。タイムワープは本当だとして、
時間は遡れても、空間は移動しない。
どうなるかわかったものではない。

ゆっくりと、とてもゆっくりと、
僕たちはこのボタンによって、
消滅への道を辿っているのではないか。

多くの人がこの世界から逃げ出そうと
ボタンを探していた。
僕は彼女とともにボタンを押して別の世界で
やり直したい。それが目的だし、それは今も
変わらない。
彼女と二人だったら、その別世界があっても
なくても構わなかった。
しかし、ひとつ不安があった。
試してみないと分からないのだけれど、
おそらくそうなるだろうという。

ボタンを押すと押した人は、
この世界から忘れられる。
僕の愛する彼女がボタンを押したとき、
僕は彼女を忘れてしまうだろう。
残されたボタンを僕は押すだろうか。
僕がボタンを押す意味は、
彼女と一緒にいられるという希望のためだ。
けれども彼女がボタンを押せば、
僕は彼女を忘れる。
もはやボタンを押す意味などない。
彼女のいない世界なんて、
どの世界にいようとも僕には何の意味もない。

僕はいう。
「ねえ、ボタンを押すのを止めようよ。
こんな世界でも僕は君がいてくれれば、
それでいい。
毎日会えなくても、贅沢できなくても、
結婚して子供をつくることができなくても、
君がいてくれれば、僕は十分だ。
そのボタンを押して、君を忘れてしまう
ことが僕には耐えられない。怖いんだ。
だから、今のままでいいじゃないか。」

彼女はいう。
「私には今の生活は耐えられないの。」
彼女の声が震えていた。

「あなたと一緒にいることはとても幸せ
だし、ずっと続いて欲しいけれど、
それと同じくらい、
もっといろんなことを試したいの。」

ずっと抑え込んでいた何かを、もう抑え
込む必要がなくなったというように、
ふっ切れたような彼女がいた。

「全てが決められて、死ぬ時期まで決め
られて、何も希望がない人生なんて、
私には耐えられない。このボタンを押して、
あなたが私を忘れてしまってもいいの。
私はこのボタンを押して、この世界から
抜け出す。それが私が生きてゆくための
唯一の道なの。」

彼女の言葉に、
僕は胸が締め付けられる思いだった。
僕は彼女に僕の疑問を言えなかった。
一緒に考えようともしなかった。
ずっと気づかないふりをしていた。
それがとても悲しくて仕方なかった。
でも、最後にどうしても言わなければならなかった。

「君がいなくなったら、僕はどうすれば
いいんだ?君が僕の全てなんだ。
君がいなくなった世界なんて、
僕には意味がない。」

言いながら、僕は彼女との楽しかった記憶を
巡らせていた。彼女の言葉や表情を思い出し
ていた。彼女の表情から少しでも心の動きを
読み取れないかと、じっと見つめた。

彼女も僕を見つめていた。その目は決意の色に満ちていた。
でも僕は見逃さなかった。その表情に一瞬の翳りがあった。
僕は彼女に声をかけようとした、その瞬間、
彼女はボタンを静かに押した。
静かに響く機械音とともに、僕から彼女が失われた。

僕はボタンを見つけた。
正確に言えば何かのスイッチのボタンで
ある。誰か見つけて、というように落ち
ていた。ボタンが落ちていたのはある
部屋の床の上だ。気がつくとそこにあった
という感じ。
ここは高層ビルのホテルの一室で、大きな
窓からは都会の夜景が広がっている。
ネオンの光が煌めき、遠くに見えるビル群が
静かに息づいている。

僕はこの部屋で何をしていたのだろう。
前後の記憶がぼんやりしている。
何か大切なものを、とても大切なものを
失った気がする。
その残り香のようなものをテーブルや
ソファーやベッドから感じられたが、
はっきりとは思い出せない。
このボタンが何を意味するのかも分からない
まま、僕はその部屋を出た。
ボタンはそのまま室内に残した。

外の空気に触れた瞬間、胸に鋭い痛みが
走った。それでも、なぜか心の奥底で
ほっとしている自分に気づいた。
その感覚がとても不思議だった。


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