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エッセイ 万葉植物園

以前から行きたかった場所がある。
万葉植物園。

まあ、こういうと、

そんなに行きたかったのか、
ということになるけど、

最近、どこにも行けてない僕は
とにかくどこかに行きたかった。

お昼のおにぎりをこしらえて、
ペットボトルのお茶を冷やしておいて、

読みかけの単行本をカバンに入れて、
どうやっていくかをスマホで調べる。

そんなことを考えていたら、
なんとなくワクワクしてきて、
出掛ける計画を立てたんだ。

万葉植物園は、万葉集に登場する植物を
お寺の境内に可能な限り植えた場所で、
行けば分かるのだけど、植物園というより
植物の多いお寺である。

植えてある植物の脇に植物の名前とその植物が
登場する万葉集の歌の札が立っている。

例えば、こんな感じ。

額田ノ女王の歌
<訳>折口信夫「口訳万葉集」
紫草の花の咲いている野すなわち、天子の御料の野を通って、
我がなつかしい君が袖を振って、私に思う心を示していられる。
あの優美な御姿を、心なき野守も見てはどうだ。

(野守を天智天皇にたとえたのだ、という説もあるが、こじつけである。
単純に客観的の歌と見れば、いよいよ、すぐれて見える歌である。以下略)

物を識らない僕が、
詩を詠んで、noteに投稿を始めて1年半。

縁遠かった詩を少しだけ読むようになって、
パラパラと詩集をめくっていって、
あちこちで万葉集の歌が出てきて、
万葉集を読みたいと思ったのだ。

そして折口信夫の口訳万葉集を買ったんだ。

ちなみに、折口信夫は万葉集をすべてそらんじ、
教え子に一首ずつ読み上げさせたものを聞き、
訳を口述筆記させたという。
弱冠28歳のときの仕事だというから驚く。

万葉集の解説本というと、枕詞や何やらの
文法めいた解説や、歌の詠み方などの説明が
あって、初心者には、とっつきにくい。

古文の勉強をしたいのではなく、歌の意味が
知りたいだけなのに、そんな本がなかなかない。

たまたま手にした口訳万葉集は、歌と現代語訳
がズバリ載っていて、しかも、訳した歌の
批評まで載っている。

この歌って、そんなにいいのかななどと
思っていると、「秀作」とか、「拙作」とか
ストレートに批評している。

巻七・一一〇二番の
「おおきみの三笠の山の帯にせる、
 細谷川の音のさやけき」
を訳したうえで、こう評する。
「音律の美を極めた歌で、内容の単調なのも、
 問題にならぬ。傑作。」
弱冠二十八歳。堂々としている。
すなわちこの三笠山の歌は国の地霊を
たたえる歌で、山や川の名じたいが美しい。
公の場で高らかにうたわれる音楽として、
絶妙に耳にここちよいということだ。
私たちには何の意味があるのか、
と思われる内容のうすい歌だ。
折口はときに、近代文学観において絶対の価値
とされる作品の<内容>や<意味>をも
あっさり蹴とばす。

折口信夫「口訳万葉集」解説ー持田叙子より抜粋

4千を超える歌が収められている万葉集を
全部読むんだと意気込んで読み始めたけれど、

あっという間に挫折して、
まだ上巻で留まってる。

大津皇子の悲劇や、
石川郎女の妖しさや、
柿本人麻呂の有名な歌を読み、

人麻呂よりも、高市黒人の方が好きだな、
などと一端(いっぱし)に思い、

子煩悩な山上憶良の歌は共感を覚え、

でも、これらのよく聞く人たちの歌を
通り過ぎると、なかなか興味が保てない。

そこで、もう一度興味を復活させるべく、
万葉植物園にいく計画を立てたのだ。

ちなみに、他にも以下のような札が立っている。
いくつか紹介する。

訳はすべて、折口信夫の口訳万葉集(岩波書店)
である。

「我が宿の軒に羊歯草生ふれども、
 恋ひ忘れ草、見れど、まだ生ひず」
<訳> 
自分の屋敷の軒には、羊歯(しだ)が生えているけれども、
恋を忘れるという忘れ草は、いくら見ても、生えていない。
「ぬばたまの黒髪山の山草に、
 小雨降りしき、しくしく思ほゆ」
<訳>
黒髪山の山の上の草に、雨が降りしきるように、
後から後から間断(しきり)なしに、いとしい人のことが思われる。


「み熊野(くまぬ)の浦の浜木綿(はまゆふ)、
 百重(ももへ)なす心は思(も)へど、直接(ただ)に逢はぬかも」
<訳>
  熊野の浦に生えている浜木綿の茎が、 幾重にも重なり合うているように、
深く心の中には、思うてはいるけれども、 直に会うたことはない。
どうぞ逢いたいものだ。

まだまだ、たくさんありますが、
このくらいにします。

最後に、植物が登場しないので、
万葉植物園にはないのですが、
柿本人麻呂の歌をもうひとつ。

「天の海に 雲の波立ち 月の船
 星の林に 漕ぎ隠る見ゆ」

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