詩 壁に止まった虫
雪の降りそうな寒い夜。
通勤帰りの乗り換え駅で、
乗り継ぎホームへと続く、
長い下りエスカレータに一人乗っていると、
ふと、通路の壁に、
一匹の小さな虫が止まっているのが見えた。
エスカレータで下りていく中、
その虫を見上げながら、
こんなところに何故止まっているのか、
この虫は冬を越えられるのか、
などと考え始めて、自分の愚かさを覚る。
虫がそんな先まで生きることを
考えるはずがない。
一瞬、一瞬、生きることだけを、
使命としている虫。
じっと、壁に張り付いていて、
誰にも気にされず、
たった一匹なのに、
寂しそうなそぶりさえみせず、
じっと、生きている。
自分が何者だとか、これからどうなるとか、
どこから来て、どこへ行くとか、
まるで意に介していない。
淡々と、黙々と、声も発せず、
跡さえ残さず、そこにいる。
油断していると、何かに襲われたり、
つぶされたり、吹き飛ばれたりと、
たくさんの危険が常に身近にありながら、
そんなものはまったく気にしていない。
虫は、虫たちは、とても長い時間を、
何憶年もの時間を、
とても短い命をつなぐことで、
僕の目の前に現れた。
この一瞬の交差は、
僕の人生に意味を持つのだろうか。
いつも先のことばかり心配し、
起きてもいないことに心を煩わし、
また、痛め、目の前にある道を
真っすぐ進めばいいのに、
あちこち、ぶつかりながら進み、
半世紀が過ぎても、
まだ、彷徨っている自分がいる。
今、壁に張り付いている虫は
冬を越えられないだろうけど、
その事実を気にしていない。
今、十年後の冬を越えられるかを
心配している僕は、虫に嗤われるだろう。
先々を心配するのは
人間の能力のひとつだけど、
あまりうまく使いこなせていないと。
心配ばかりして、心を擦り減らし、
体を壊すだけだとしたら、
そんな能力はいらない。
僕は虫を見ながら、そんなことを思った。