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『虹』【匣月世理の創作小説 001】

大学生のころに書いた短編小説を少し手直ししたものです。
恥ずかしさもありますが、供養も兼ねてnoteに公開したいと思います。


『虹』(約4,300字)


 ――本がお好きなんですか?

 思いがけなく話しかけられて、口から心臓が飛び出しそうになりました。幸いにも心臓は飛び出さなかったのですが、「はわあっ」というような間抜けな悲鳴をあげていました。

 声のしたほうに振り向きますと、目の前に若いお姉さんが立っていて、優しそうな笑顔を浮かべています。本に夢中になっていた私は、すぐ隣に誰かが立っていることに気がつかなかったのです。

 これは十余年前の夏にあった出来事なのですが、私はこのときのことを今でもよく覚えています。そのお姉さんとの偶然の、しかも、たった一度きりの出会いが、「私」という人間ができあがるのに少なからず影響を与えているのですから、人の縁というのはとても不思議なものです。

 当時、小学校の六年生だった私は、夏休みを一秒でも無駄にしてなるものかと、宿題なんかには目もくれないで、仲のよい友達と一日中遊びまわっていました。私の家は京都の東山の辺りにあったのですが、北は比叡山、南は稲荷山、西は嵐山と、南船北馬東奔西走の毎日を送っていました。

 南船北馬東奔西走は言い過ぎでしょうか。いえ、小学生の私にとっては京都の市中が世界の全てと言ってもよかったですから、やはり表現としては正しいように思います。陽が昇ってから沈むまで、自転車で市中を駆けまわっていたのですから、その溌溂さに我ながら感心してしまいます。

 さて、お姉さんに出会ったのは、八月も半ばを迎えた頃のことです。いつも一緒に遊んでいた友達が、親の里帰りや親戚の集まりなどで都合がつかなかったので、私はひとりで暇を持て余していました。

 家でぼうっとしていますと、母から「宿題はしたの?」なんて言われるものですから、昼食を終えると一目散に家を飛び出し、鴨川のほとりをぶらぶらと散歩することにしたのです。

 その夏一番と言ってもよいほどに暑い日だったと記憶しています。空には青空が広がっていて、何にも遮られることのない陽の光が燦々と照りつけていました。歩いているだけでも全身に汗が浮かんできて、きらめく川面を眺めながら、「鴨川に飛び込んだら気持ちいいだろうな」なんてことを思っていました。

 鴨川デルタを少し過ぎたところで、糺の森の木々の間に白いテントが並んでいて、大勢の人が集まっているのが見えました。この時期になると「下鴨納涼古本まつり」なるものが行われているということを、私は露も知らなかったものですから、「お祭りでもあるのかな?」と胸をときめかせ、汗だくになるのも気にせずに駆け出しました。

 糺の森に辿りついたときの私の落胆が想像できるでしょうか。林檎飴に焼きそば、射的にくじ引きといった、心躍る出店を期待していた私の目に映ったものは、見渡すかぎりの本の山でした。当時はどちらかといえば外遊びが好きな子どもでしたのに、両親や学校の先生は「たまには本を読みなさい」なんて説教してくるものですから、私は本というものに敵意のようなものを持っていたのです。

 すぐに帰ってもよかったのですが、他にすることもなかったので、少しだけ覗いていくことにしました。覗いていくと決めたのはよいのですが、難しそうな分厚い本ばかりが並んでいて、どうにも手に取ってみる気になれません。

 五分ほど経っても面白そうなものが見つからず、そろそろ帰ろうかなと思っていた矢先のことです。ふと一冊の本が目に留まりました。題名も著者も忘れてしまいましたが、表紙に描かれた可愛らしい女の子の姿に心惹かれたのを覚えています。

 私はその本を手に取ってみました。ぱらぱらと開いてみると中身は普通の小説です。本の内容にはあまり興味を持てなかったのですが、数ページごとに前の持ち主が描いたのであろう落書きがありまして、それがとっても可愛らしかったために、私はいつの間にか夢中でページを捲っていたのでした。

「本がお好きなんですか?」

 このタイミングでお姉さんに話しかけられたわけです。私が落書きを見るために夢中で本を捲っていたのを、大層な読書好きなのだと勘違いしてしまったようです。私は何だか申し訳なくなってしまいました。先ほども述べましたように、当時の私にとって、本は敵のような存在だったからです。

 お姉さんに話しかけられて、私はとても驚いたのですが、私と目が合った瞬間、お姉さんも驚きの表情を浮かべました。それこそ心臓が飛び出しそうなほど驚いているように見えましたが、それも一瞬のことで、お姉さんはすぐに優しそうな笑顔に戻りました。私があまりにも驚いたものだから、きっとお姉さんも驚いてしまったのだろうと思います。

「本がお好きなんですか?」

 見つめ合ったまま黙ってしまった私に、お姉さんは同じ質問を繰り返しました。一瞬どう答えたらよいか迷いましたが、自分に嘘をつくことはよくないことです。私が「どちらかというと嫌い」と言うと、お姉さんは「私も嫌いでした」と微笑みました。

「でも、今は大好きなんです。たとえば――」

 お姉さんは机の上に並んである本を数冊手に取ると、どういうお話なのかを教えてくれました。楽しい冒険のお話、悲しい別れのお話、素敵な恋のお話――。国語の授業には全く興味を持てなかった私ですが、いつの間にかお姉さんの話を聞くのに熱中していました。

 どれくらいの時間が経ったでしょうか。数分だったようにも、数十分だったようにも思います。お姉さんの話に夢中になっていた私は、突然に頭の天辺を打った刺激で我に返りました。見上げますと、先程まで青かったはずの空に、どんよりとした鉛色の雲が浮かんでいました。頭の天辺にぶつかったのは雨粒のようです。

 雨足はすぐに強くなりました。通り雨なんて予想していなかったものですから、もちろん傘なんか持っていません。私は途方に暮れましたが、お姉さんが水玉模様の傘の中に私を入れてくれました。

「家まで送ってあげましょうか?」

 お姉さんは言いました。申し訳なかったですし、まわりの大人には「知らない人についていくな」と散々言われていたものですから、最初は断ろうと思いました。しかし、何故だか、私はお姉さんに親近感を覚えていましたし、お姉さんが「私も東山のほうに家がありますから」と言いましたので、お言葉に甘えることにしたのです。

 私とお姉さんは相合傘をしながら鴨川のほとりを歩きました。お姉さんが肩から提げている鞄には、小さな鈴のキーホルダーが付いていて、足を進めるたびに「ちりん、ちりん、ちりん」と可愛らしい音で鳴ります。私はその音をとても気に入りました。

 お姉さんは先ほどの話の続きをしてくれます。色々な本のお話です。お姉さんと歩いていると、いつもの街並みが少し違ったものに見えました。ふと気づくと、いつの間にか雨は止んでいます。傘をたたむと、目の前に大きな虹がかかっていました。

 My heart leaps up when I behold
 A rainbow in the sky.
 So was it when my life began;
 So is it now I am a man;
 So be it when I grow old,
 Or let me die!

 お姉さんが口ずさんだ詩が、ワーズワースという詩人の『虹』という作品であると知ったのは、私が高校生になってからのことでした。その当時は詩の意味など分かるはずもなかったのですが、お姉さんの歌うような声が今でも記憶に残っています。

「この鈴、もらってくれませんか?」

 私の家の前までやってくると、お姉さんは鈴のキーホルダーを鞄から外して、私の手に握らせました。私はキーホルダーを揺らしてみます。「ちりん、ちりん、ちりん」と可愛らしい音が鳴りました。私は何だか楽しくなって、何回も鈴を鳴らしてみるのでした。

 お礼を言おうと顔を上げると、お姉さんはもう居なくなっていました。空に浮かんでいた鉛色の雨雲も、先ほどまで降っていた雨の余韻も消えていました。夢とも幻とも思えましたが、私の手には鈴のキーホルダーがしっかりと握られていました。

 それから二度とお姉さんに会うことはありませんでした。中高生のころは毎年のように古本まつりに足を運んだのですが、お姉さんの姿を見つけることはできませんでした。大学は東京に進学することになり、サークル活動やアルバイトで忙しく、お盆も帰省しないという親不孝を続けていたため、お姉さんを探すこともできませんでした。

 お姉さんとの出会いの後、私はよく本を読むようになりました。お姉さんが教えてくれた本もいくつか読みました。色々なお話を読むたびに、私はますます読書に熱中するようになるのでした。本のことを敵のように思っていた私が、大学では英文科に進んでいるのですから、お姉さんとの出会いの影響は計り知れないというものです。

 鈴のキーホルダーは今でも大切にしていて、お姉さんと同じように鞄に付けています。今でも「ちりん、ちりん、ちりん」と歌うような鈴の音を聞くたびに、お姉さんとの出会いを思い出します。

 大学四年生の夏、私は久しぶりに実家に帰りました。ちょうど古本まつりが開催されているころで、私は四年ぶりに糺の森へと足を運ぶことにしました。お姉さんに会えるかもしれないという、ほんの微かな期待もありました。

 家を出ようとしたとき、母に傘を渡されました。天気予報で「通り雨に注意」と言っていたとのことです。空を見上げると、西のほうに鉛色した雲が浮かんでいました。通り雨が降ったら、あの日と同じような虹が見えるかもしれない。少し胸が高鳴ります。

 空にかかる虹を見ると、
 私の心は高鳴るのです。
 少年のころも、
 大人になった今でも、そうなのです。
 年をとっても、そうありたい。
 さもなくば、死を。

 鴨川のほとりを歩きながら、ワーズワースの『虹』を口ずさみます。私ののんびりとした歩調に合わせて、鞄に付けた鈴が「ちりん、ちりん、ちりん」と控えめに鳴っています。

 糺の森には、いつもと同じように白いテントが立ち並び、本の山のなかを大勢の人々が歩いていました。本棚の間を回遊しながら、お姉さんの姿を探してみます。残念ながら、お姉さんは見つけられなかったのですが、ふと一人の女の子の姿が目に留まりました。

 女の子は必死に本を捲っています。まるで、あの日の私がそこにいるようで、自然とその女の子の隣まで近づいてしまいました。女の子は本を読むのに夢中になっていて、すぐ隣に私が立ったことにも気付いていません。

 果たして、私はその女の子に話しかけずにはいられませんでした。

 ――本がお好きなんですか?


*最終更新日 2024/10/19

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