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読書日記 『彼は早稲田で死んだ』 ふりかかった暴力に非暴力で対抗できるのか

樋田毅・著 『彼は早稲田で死んだ』 文藝春秋

少し前から話題の本だ。今年の大宅壮一ノンフィクション賞を受賞している。著者は元朝日新聞の記者だ。単著に、朝日新聞阪神支局襲撃事件を追った『記者襲撃 赤報隊事件30年目の真実』などがある。

本書は、著者が大学生だった頃のことを書いた本だ。時代にして、約50年前のことだ。新聞社を定年退職して、今、書いておこうと思って本書を書いたと言うが、こんな大事なことを書くのに50年も間をあけるのか、時間がかかり過ぎだろう、もっと前に書いておくべきだろう、などと私は思ったが、自分も思春期の頃のこととか学生時代のこととかを、今でも平気で書いているので、著者とは違うけれど、そういうこともありかなと思ってみたりした。


1 ヤンキーマンガが現実化した角材と鉄パイプの内ゲバ


著者は1972年の4月に早稲田大学の文学部に入学した。その直前である2月にあさま山荘事件が起こっている。世の中は、学生運動も終わりの方になって、内ゲバの時代に突入していた。って、こんな雑な認識でいいのだろうか? それくらい私には知識がないのだ。

著者が入学した早稲田大学は、まだまだ学生運動が盛んで、大学構内を革マル派が仕切っていたと言う。自治会を司り、学園祭を牛耳って、公式に年間900万円もの予算を得ていた。教室も専用に与えられていて、早稲田の文学部は革マル派の拠点の一つになっていたと言う。

当時の革マル派は、大学の中でも、中核派や民青と、日常的にぶつかっていたと言う。ぶつかるというのは、暴力沙汰だ。時には鉄パイプを用いた肉弾戦もある。怪我人も出る。なんだかヤンキーマンガの抗争みたいだが、現実にあったことだ。

早稲田大学は、革マル派の拠点だったから、何かあると外部から革マル派のメンバーが応援にやってくる。

外部というのは外部だから、他の大学の革マル派の学生だったり、社会人で革マル派の運動をやっている人だったりする。そんな部外者が出入り自由なのも考えられないが、そのうえ鉄パイプで武装して、効果的な戦い方、集団戦の訓練をした戦闘部隊というものが、50人、100人の単位で動員されることもあったというから、本当にヤンキーマンガみたいだったのだ。

しかし、なんで鉄パイプだったのだろうか。水道管やガス管に用いられている鉄パイプだと重すぎて、振り回しづらい。内ゲバというストリート・ファイトに用いられた鉄パイプは、どんな太さでどれくらいの重さ、長さだったのだろうか。ネットで調べてみたが、わからなかった。

今なら金属バットが使われるのだろうが、金属バットが一般的になるのは、70年代後半以降だから、数年のずれがあった。これは幸いなことだったように思う。

もう一つ、疑問なのが角材だ。昔のニュース映像では、自分の背丈よりも長い角材を持ってデモしている光景をよく見る。しかし、あんなに長い棒は、実践的だとはとても思えない。振り回しづらいし、槍のように使うしかなかったのではないか。どんな実用目的があったのだろうか。

2 自治尊重という怠慢


話がそれてしまったが、早稲田大学の中ではそういう暴力沙汰が日常的に起こっていたと言う。一般の大学生は、怯えながらびくびくとして過ごし、教師は何かあったら吊るし上げられたり、殴られたりするので、黙るか言いなりになっていたらしい。肝心の大学は、革マル派の上層部と通じていたので、暴力事件には見て見ぬふりをして放置していたと言う。

大学側としては、いろいろな団体に勝手なことをやられるよりも、革マル派一本に絞ったほうが、管理上の都合がよかった、なんていう判断もあったのかもしれない。それにしても、怠慢もいいところだと思う。

それにもまして不思議なのか、警察の不在だ。今なら、暴力事件が起これば、すぐに通報して、警察に対応してもらうのが当たり前だと思うのだが、当時の大学は、大学の自治を尊重し、警察不介入を前提としていたので、一種の治外法権のような状態だったのだそうだ。そのため、革マル派は我が物顔でのさばって、暴力的な支配をしていたと言う。ただそれは大学の構内に限ったこで一歩外に出れば、普通の平和な日常があったのだと言う。それがまた、私にはちょっと想像が出来ない。

大学自治だとか学生の権利なんて主張が優先されて、暴力はいけないという普通のことがないがしろにされていることに驚く。思想信条が正しければ、暴力が肯定されるというのも、今では考えられない。

他人を殴ったり蹴ったり、監禁したりする行為が日常化していて平気な環境って、考えられないのだけれど、それを当たり前とする人たちが、大勢いたのだ。当たり前とか普通という感覚も、時代によって、コロコロ変わる、不安定なものなのだということだろうか。

3 己の正しさを証明するために考えの違う他人を撲滅する


それにしても、自分の考えが絶対に正しいなんて考えると、ろくなことが起きない。自分の正しさを証明するために、自分と違った考えの人を、一人残らず撲滅しなくてはならなくなる。内ゲバは、そういうことで起こっているみたいだ。なんだかな、だ。

私も、自分と違う考えの人がいると、我慢できずに攻撃してしまうことがある。あまりにも卑近な例だが、2、30年前のことだが、B'zが好きだとかチャゲ&飛鳥が好きだなんて言われると、めらめらと攻撃心がわいた時期があった。こんなことを書いたら怒られるかもしれないが、学生運動の内ゲバも、便乗参加者にとっては、発端はそんな程度の攻撃心と変わらないように見える。

4 1972年の11月に起きたリンチ殺人事件


とにかくそういう異常な状態に、当時の早稲田大学はあった。そして1972年の11月に、一人の学生が、革マル派に、中核派だと疑われて、リンチにあい、撲殺される事件が起こる。それを機に、ノンポリだった普通の学生たちが革マル派の排除のために立ち上がり、新しい運動が始まる。その運動のリーダーになったのか、まだ大学一年生だった著者だった。

著者たちの反革マル運動は、一時は、盛り上がり、革マル派排除が実現できそうになるが、紆余曲折を経て、反革マル派運動も分裂してしまう。著者は徹底して非暴力を訴えるが、ぎりぎり自衛のための暴力を認めようという人たちと分裂してしまうのだ。その後、著者も革マル派からリンチを受け、重傷を負う。そのような過程を経て、著者は、運動をやめることにする。要するに敗退だ。

撲殺事件の犯人は、何人かが警察に逮捕されたが、全員黙秘を通したので、釈放されている。その後、実行犯の一人が、思想的な転向をして、警察に自首をし自白をしたことによって、四人が逮捕され、全員が刑に服している。

運動をやめた著者は、革マル派から見咎められないように、長髪だった髪の毛を切って七三に分け、伸ばし放題だったひげを剃り、ワイシャツにネクタイ姿の学生になって、学業に専念して、大学を卒業し、朝日新聞に入社している。

その間、早稲田大学の革マル派は、大学構内に居座り続け、暴力支配を続けたらしい。しかし、世の中の学生運動の衰退に伴って、徐々に影響力はなくなっていったが、90年代にもまだ学園祭を仕切っていたと言う。

現在はどうなっているのか、ネットで少し調べてみたが、よくわからなかった。90年代以降に、大学側が、本格的に革マル派と決別したのかもしれない。少数派にはなっていたらしい。しかし、革マル派の本部は、早稲田の鶴巻町のビルにいまだにある。

さて、そんなこんなで、1972年の11月に起きたリンチ殺人事件が起きた背景とその顛末を、当時を目撃した人間として記録に残したのが、本書だ。

著者は一貫して非暴力を貫き、非暴力を提唱している。私もとるべき態度は、非暴力しかないと思うが、これは他人には強要できないし、恐らくその場ではやられるだけで、何の役にも立たないだろうし、どこまで有効なのかも、よくわからない。でもテーマとして、非暴力を考える必要は絶対にあると思う。この件にかんしては、難しすぎて、私はうまく説明できないので、ここではこれで終わる。

5 50年ぶりに再会した加害者との噛み合わない対話


この本では、最後に、当時の早稲田の革マル派のナンバー2だった男と、著者が対談をしている。ナンバー2は、リンチ殺人事件には直接関わっていなかったとされるが、直属の部下が実行犯だったわけだから、責任がないわけはないと思う。

この対談が、まるっきり嚙み合っていないのだ。著者が攻めるのだが、ナンバー2だった男は、のらりくらりとはぐらかして、逃げている。

こう言ったら、問題がズレるかもしれないが、いじめの問題みたいなのだ。いじめた側は、いじめた記憶がなく、いじめられた方は一生のトラウマになって、何年経っても悩まされている、という状態にそっくりなのだ。

ナンバー2だった男は、自分にとって学生運動は、若き日の通過点であって、その前も後も、どちらかというと行き当たりばったりの人生を過ごしてきたので、自分にとってあまり大きなものではないし、当時も今も革マルの思想を理解して動いていたわけではなく、ただ暴れたいって感じでやっていただけで、自分は転向とか反省とかそういうタイプじゃないし、申し訳ないけど、著者に責められても答えようがないのだし、でも若い頃に自分が暴力的だったことは確かだし、それについては謝りたいと思う、といった調子なのだ。

ちゃんと公の場に出てきて、対談に応じているから、真摯な態度なのかもしれないし、暴力をふるった側にしたら、それが本心なのかもしれないと思うが、ナンバー2だった男の言っていることは、コトバとして、テキトー過ぎる印象を受けた。学生運動のコトバに、総括というコトバがあるけれど、まるで総括から逃げているような印象を受けるのだ。

つまり、ナンバー2だった男は、総括とも無縁なほど、学生運動の本質と違うところにいたのかもしれない。しかし、対談を読んでいて、人としてどうなのかなと疑問を感じざるを得ないのだ。その態度や言葉から、加害者としての意識がさっぱり感じられないのだ。やはり加害者意識をしっかりと認識して、過去にしっかりと、けじめをつけてもらわないと、ナンバー2の男のコトバも、現在やっていることも、全部が信用できなくなる。

だから、この対談で著者は、ナンバー2だった男に、ちゃんと謝罪させるべきだったと思う。もっと強く糾弾すべきだったと思う。

6 環境運動家辻信一の失われた信用


ナンバー2だった男は、本名は大岩圭之助というが、社会的には辻信一の名前で知られている。現在は明治学院大学の名誉教授で、環境・文化アクティビスト、文化人類学者として活躍している。

1972年の12月、事件の直後に早稲田大学を退学になり、その後、しばらく運動をしていたらしいが、敵対する中核派に襲撃され、怖くなって、学生運動から足を洗っている。その後、しばらくしてから渡米して、アメリカの大学を二つくらい渡り歩いて、卒業しているから、もともと頭のいい人なのだろう。

帰国してはからは、明治大学の先生になっている。同時に、辻信一という名前で、著作を何冊も出したり、「スローライフ運動」の日本への紹介者として活躍している。「スローライフ」とか「スロー・フード」、電気を使わない「100万人のキャンドル・ナイト」といったことを日本で最初に提唱した、このジャンルの第一人者だ。

高橋源一郎との対談本も3冊くらい出している。そのうちの一冊の『弱さの思想 たそがれを抱きしめる』(大月書店 2014年)の宣伝文句を引用すると「「弱さ」を中心に据えた町やコミュニティをフィールドワークし、考察を深めていくと、全く新しい共同体のあり方が浮かび上がり、今を生きる思想としての「弱さ」が形づくられていく。2人が体験を通し真摯に語り合う。」となっている。ふーん、なんだかな、だ。

国分寺にカフェ・スローというお店があり、辻信一は、過去にそこで講演やイベントをやっていた。私も妻に連れられて何度か参加したことがある。カフェ・スローは、その後、道路の反対側に移転したが、現在でもちゃんと存在していて、同じようなイベントをやり、ヨガ教室もやっている。

すごく複雑な気持ちになってしまった。辻信一が、過去の革マル派だった頃のことを自分から語って、何らかの反省を示していたら、彼の言っている「スローライフ」も「スロー・フード」も、ちゃんとしたものとして、受け入れられると思う。

が、今回のように、外的な要因から、心ならずも過去が明るみになった形で、転向声明とか謝罪声明がないままだと、これまでに辻信一が言ってきたことが、全部、説得力を失ってしまった気がする。ほとんど広河隆一状態だ。今後、何を発言しても、辻信一に信用はないのではないのか。

数日前までの、辻信一のウィキペディアには、革マル派との関連の記述があったが、現在は削除されている。そもそも革マル派との関連の記述はこの本を受けて、追加されたものだと思う。最近、閲覧数が増えたことで、人権?を考慮して、自主規制的に削除されたような気がする。

とはいえ、辻信一のような例は、過去にいくらでもあったような気もする。たまたま辻信一は明るみに出てしまったけど、不問に付されている例は、いくらでもあるのだろう。例えば、戦時中満州で人体実験を繰り返した731部隊のメンバーたちは、戦後、何ら咎められることもなく、日本の予防医学会の重鎮になったというから、昔から、日本ではこんなことは、当たり前にあったんだろうな、という気がする。なんだかな、だ。

7 統一教会の影


この本に、二か所、旧統一教会が登場している。1972年の11月に起きたリンチ殺人事件の被害者は、川口大二郎さんという。その川口さんが、生前、何度か原理研究会と接触があったのだ。それが一か所目。

もう一か所は、セミナーハウスのくだりだ。川口さんの死に対して早稲田大学が遺族に600万円を見舞金として支払っている。その全額が、セミナーハウスの建設資金に使われたという。そのセミナーハウスが、統一教会のセミナーハウスだったのだ。

遺族と統一教会の関係については、本書では書かれていないが、川口さんが生前にわずかだが原理研とかかわりがあったことから、統一教会側が自分たちの人として祭り上げて、その死を利用しているものと思われる。本書には書かれていないが、これには後日談がある。

著者の樋田毅とジャーナリストの青木理がゲスト参加した津田大介のYouTube番組によると、統一教会側は、川口さんを、かつて犠牲になった自分たちの英雄として教団内部で語り継ぎ、50年経った現在でも、遺族と接触を持ち続けているのだ。50回忌の法要にも、統一教会員が数人、参列している。執念深いのか、草の根の運動の見本と思えばいいのか、それを知って私はぞっとした。

8 鉄パイプを持った人たちは今何を考えているのか


この本を読んで一番感じたのは、当時の関係者たちは、現在、どうしているのだろうか、ということだった。当時、学生運動をしていた人たちは、立場や所属はともかく、かなりの人数になるだろう。彼等はその後、どうしているのだろうか?

それに本書にはあまり女性の意見が出てこないのだが、運動を担っていた女性たち、あるいはそれを支えていた女の人たち、見ていた女の人たちの、今のコトバを知りたいと思った。

この本を読みながら思い出したのだが、私が学生時代を送っていた1980年代前半の仙台でも、実入りがいいからと水商売をして、収入のかなりの部分を運動にカンパしている女性がいた。あの女性は今どうしているのだろうか? 今となれば、その女性の姿が、なんとなく統一教会にお金を吸い取られているパターンと重なって見える。

また、あれだけいた革マル派の、鉄パイプ部隊の人たちは、どこに行ったのだろうか? その後、何をしてどういう人生を歩んでいるのだろうか? 鉄パイプで人を殴ったことをどう思っているのだろうか? 今、どうしているのだろうか? 運動の中核を担っていた人もいるだろうが、かなりの数の人間は便乗参加だったと思う。便乗参加だった人も、成り行きで、内ゲバに発展し、暴力をふるった人もいたはずだ。そういう加害側の人たちの意見を聞いてみたいと思った。

9 降りかかる暴力にはどう対抗したらいいのか


ここから先は、私の課題だ。まだ何も書けていない。考えて、暫定的でも答えを出していかなければならないと思っている。


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