ヤクザ映画ってロックじゃないよな、とかウネウネ考えた
男同士で濃厚につるむヤクザは、ロックじゃない
ネットフリックスで邦画を漁っていると、やたらとたくさん、ヤクザが出てくる。と言うことで、ヤクザ映画ついて考えてみる。
警察モノや犯罪モノには、必ずヤクザが出てくるし、青春モノの一種であるヤンキーモノにもヤクザはつきものだ。暴力過多のものもあればコメディもある。
現実の私の周辺にはヤクザはない。子供の頃に近所にテキヤの親分の家があったくらいだ。だからヤクザについては何も知らない。
それに、現実の私は、人づきあいが苦手だ。そのせいか、人がつるんでいる光景を見ると、居心地が悪くなる。だから、ヤクザ映画で見るヤクザの人達の、濃厚なつるみ方には、拒否反応が出てしまう。
ヤンキー映画も苦手だ。苦手というよりも、積極的に嫌いだ。ヤンキー文化も嫌いだ。そうなると、日本のサブカルチャーのかなりの部分に拒否反応が出ることになる。
とにかくつるむのは、ロックじゃない気がする。私は「ロック」なものが好きなのだ。そして私が思っている「ロック」は、つるむの対極にあるのだ。
私はロックが好きだし、私の色んな価値観の中心には、「ロック」と言う変なものがガシッとある。でも、コンサートでみんなと一体になるのは大嫌いなのだ。私の思っている「ロック」は、あくまでも、一個人としてある意識だ。ロックなんだから熱狂なのだが、どこまでも醒めた一人の熱狂だ。
そんな「ロック」を妄想している私には、ヤクザ映画はぜんぜんロックじゃないのだ。だから私はヤクザ映画を好きになれない。
という無茶苦茶な理屈だ、今回も。
高倉健は、冴えない男が自分を仮託する対象なのか?
それにしても、ヤクザが出てくる映画の幅は、とても広い。こんだけ多いと、ほとんどの日本人がヤクザが大好きで、ヤクザは日本の物語づくりには欠かせないもののように見えてくる。
さっきも書いたが、私は、ヤクザ映画は、好きじゃない。苦手だ。だいたいヤクザの組が堂々と街中で看板を掲げているところからして、アウトローな感じがしない。社会の一部として公認された存在にしか見えないではないか。
映画の中では、そんな組に、大抵、善い組と悪い組がある。大抵、善い組は時代遅れで、悪い組は時代にのっていたりする。
この対立するやくざの組っていうのが、時代の最先端vs時代に取り残されたとか、さとく儲けられる層vs愚鈍で純情で儲けられない層とか、腐敗した組織vs実直な組織とか、いろんなものの対立を象徴しているのだと思う。
そんな対立が渦巻く渦中で、主人公は、渡世の義理とか人情とか仁義とかが理由となって、大して縁もゆかりもない人のために、命をかけたりするのだ。
きっとそこに泣きどころとか感動のしどころがあるのだ。性格の悪い私は、そういう場面を見ると、プッと噴き出してしまったりする。なんでかわからないが、生理的にそういう反応をしてしまうのだ。
大体、仁義を切るって、ほとんど変身ものの変身シーンに見える。変身しないけど…。
これまでに私が見たヤクザ映画の数は、本当に少ない。その限られた中で高倉健は、因縁があって「悪い組」に頭が上がらないけれども、「良い組」とか弱い人のために、我慢に我慢を重ねた末に、一人で立ち上がって、身を賭して、「悪い組」に乗り込んで、肉弾戦を繰り広げて、最後は勝利する男っていう役を、いつも演じていた。
しかも高倉健の場合、やけに禁欲的なのだ。主人公なのに(映画スターなのに)、あいつ、いいことしてやがんなあっていう、やっかみを感じさせる要素のない、「禁欲さ」があるのだ。それが多分、観客である冴えない日常を送る男連中に支持されたんだと、思う。
などと、当時のことも、ヤクザ映画もろくに見たことのない私は思うのだ。私が高倉健を劇場で見た最初は、『君よ憤怒の河を渡れ』とか『野生の証明』だから、ヤクザ映画ではない。高倉健のヤクザ映画は、確かオールナイトの5本立てで見たのだ。
無責任だが、私は、ヤクザ映画を語れるほど、見ていないのだ。そういう前提で、ヤクザ映画について考えている。
実話誌は無くなったが、ヤクザが出てくる映画はたくさんある
その昔、ヤクザ映画というジャンルがあった。東映が中心で、高倉健や鶴田浩二が出ていた。藤純子や江波杏子の女博徒ものもあった。私はほぼ見たことはないが、知識としては、知っている。
そういうヤクザ映画のピークは、1950~60年代のことだ。私が映画館に足を運ぶようになるのは1970年代の半ばからだから、その時代のヤクザ映画を見たのは、1980年以降に、オールナイト5本立てで、高倉健特集や藤純子特集なんかで見た程度だ。
ヤクザ映画は、1970年代になると、『仁義なき闘い』シリーズのような実録モノになっていく。誰もが名作だと言うが、私は、途中で寝てしまって、どれも最後まで見ていない。今回もネットフリックスに5作品が揃っていたのでチャレンジしてみたが、全部駄目だった。気が付いたら寝ているのだ。
1980年代の半ばになると、『極道の妻たち』のシリーズが流行ったが、個人的に大好きな俳優である萩原健一が出たものしか私は見ていない。
1990年代は、映画館ではなくレンタルビデオで見る、Vシネマというヤクザ専門映画が流行ったが、私は、多分、借りたことがない。
2000年以降となると、よくわからない。何か傾向があるのだろうか? 私は見ていないが、北野武の『アウトレイジ』などがヤクザ映画を代表するのだろうか?
ヤクザが出てくる最近の映画は、義理も人情も関係なく、ひたすら暴力的なのが多い。ヤクザと言うか暴力団は、裏社会で暗躍する暴力に特化した特殊集団のように描かれている。それらがどこまで現実を反映しているのかは、まるでわからないが、なんか嘘くさい。
ヤクザ映画に似合うのは、昔から「演歌」や「ブルース」で、最近は「ヤンキー・フォーク」みたいな「ラップ」だ。どれも私は相に合わない。というより苦手だ。全然ロックじゃないのだ。
そういえば以前は、コンビニなどに「実話誌」という雑誌が売ってあった。どこぞの組を特集したり、どこぞの親分が代替わりしたとか、誰それが襲名したとか、そんな記事などが、実名、写真入りで掲載されていた。
ヤクザだか暴力団の組長が、インタビューなんかに答えているのだ。業界誌なのか芸能誌なのか判然としないが、虚実が入り混じる、B、C級の匂いを強烈に放っていた。
今では、あれらの雑誌も見かけなくなった。それだけ、ヤクザに対する世間の需要もなくなっているのだろうか。その割に、日本映画はヤクザだらけの印象があるから、単に紙の雑誌が売れなくなっただけかもしれない。
あるいは、コンビニからエロ本が駆逐されたのと同じように、売り場を失くしただけなのかもしれない。
渡世の義理と、人情と、男らしさとか
ヤクザ映画は、女博徒を主人公にしたものをのぞいて、今も昔も男を描いたものが圧倒的に多い。そこでは「男らしさ」みたいなものが、ものすごく価値のあるものとして扱われている。
この「男らしさ」っていうのが、私にはぜんぜんわからないのだ。大抵、法律を破って、警察を敵に回してでも、自分たちの掟に従う、という感じなのだが、別にヤクザでなくても、ハードボイルド小説やハードボイルド映画でも、似たようなパターンはいくらでもある。
ただし、ハードボイルの主人公は、ほぼ単独者で、誰かとつるむことがない。ハードボイルドも「男らしさ」を描いているようで、チャンドラーの主人公なんかは、思春期丸出しで(私の個人的な意見)、とても大人の男とは思えない。それだから、私も好きなのだが…。
何を書いているかわからなくなってきた。ちょっとまとめてみよう。
ヤクザ映画の「男らしさ」は、国の決まりや、ヤクザ渡世の義理を破ってでも、人情を優先させる生き方のことのようだ。それはやせ我慢のツッパリのようでいて、わざとらしい上に、どこか投げやりに、私には見える。そしてそういう生き方には、「不器用」というコトバが当てはまるのだ。
人情を優先し、不器用な生き方をしている禁欲的な男である高倉健に、みんなあこがれたのだと思う。
でも、それは最後に勝つからであって、勝たないとハナシにならないのだと思う。そして現実の世界では、生き方が不器用で人情を優先させる禁欲的な男は、勝負に勝つなんてことはないのだ。
ヤクザ=スジを通す人なのか?
映画の中のヤクザはよくスジが通るとか通らないとか言ってもめているが、私が直面している現実の生活の中では、スジが通らないことだらけだし、職場では、組織のスジは通っても、個人のスジなど通ったためしがない。
子供の頃の学校だって、協調性という組織のスジは強要されるが、個人のスジなんて我儘として否定されてきた。
ヤクザは、そういった世の中や組織の中で、唯一、スジを通す自由な存在なのだろうか?
たしかにヤクザの出る映画では、最後は、すべてが丸く収まるかのような大きな流れに反して、一人の人間が個人的なスジを通して、一矢を報いる的な展開になることが多い。
そういう展開になって、主人公やそれに準じるヤクザが犠牲になって、命を落としたりする。大抵、そういうヤクザは、強面だけど、純情を併せ持った性格に造形されている。
それはそれで、見ている者達に、ホロリとした感動やスッキリした快感をもたらしてくれる。そういう結末は、映画とかフィクションの醍醐味かも知れない。
でも、そういうのはヤクザ映画に限ったことではない。だって、フィクションのかなりのものが、集団vs個人の軋轢・闘い、みたいなパターンばかりではないか。
主人公は決まって、組織の中であぶれた個人行動をする人で、周囲の空気を読まない非日本的な人物であることが多い。
同時にそういう人は、義理人情に厚かったり、厳しい倫理観に根ざしたルールや道理を実践する個人的な人であったりする。
ヤクザ映画を好む人はこんな人達だ、と思っている私の偏見
十年位前のことだ。当時勤めていた職場の昼休みに、みんなでテレビを見ていた。ワイドショーで、暴力団員の旦那が服役中で、残された家族が生活保護で暮らしているというレポートが取り上げられた。
それを見た職場の人たちの、ほとんどが、「こんな人たちに生活保護の支給はあり得ない」と、さも呆れたように語りだし、盛り上がった。
続けてテレビでは、暴力団員の家族は、銀行口座も作れない、という話題に移った。今度は、「当たり前だ、ヤクザの家族なんだから口座なんか作れなくて当然だ」、と言う人が大半だった。
ヤクザだろうがヤクザの家族だろうが、人権があるだろうと私が言ったら、みんなの反感を買って、非常識なことを言う邪魔な人として、退職するまで、ソフトな村八分状態になった。
そんなだから、世の中のほとんどの人が、実際に自分の生活圏にヤクザがいれば、排除、攻撃する側になるのだと思う。それで、もし、ヤクザが目の前に現れて、一対一で接したら、ヤクザの言いなりになるような気がする。
そういう人達は、上司が理不尽がことを言っても、仕事だからといって、意義を唱えずに、従っていることが多い。仕事ってそういうものだとか、割り切ってやるのが仕事だとか言う。言いながら、陰で上司の文句も言うのだ。だから、そういう人達は、ヤクザが何か言ってきたら、そのまま従いそうに見える。
私は上司に素直に従うことも出来ないし、みんなとそうだようねえってやることも下手だ。努力しても出来ないのだ。あれ、これじゃあ、まるで不器用な男ではないか……。
私は、世の中の大半の人は、そういう仕事の仕方をしている人達だから、あんまり信用していない。そういう信用ならない人達は、いざとなったら、どっち側にも平気でなびく。それが平均的な人達なのだと思っている。我ながら身も蓋もないなと思うが、そう実感しているのだからしょうがない。
もしかしたら、観客(平均的な人達)は普段、組織や社会の最大公約数の流れにストレスを感じつつ、その流れに加担しているから、その流れに竿をさす人や物語に接して、ストレスを発散させているのかもしれない。
そういう物語の主人公に据えやすいのが、ヤクザなのかもしれない。なんて考えてみたが、よくわからない。なんだか個人的な恨みを綴っているようになってきた……。
ヤクザ社会は警察や相撲部屋に似ている
ヤクザの親分子分の関係を考えてみると、ヤクザ社会の締め付けが強すぎて、個人的なスジを通すことなんて、あり得ないように、私には見える。
ヤクザの社会では、親分が白いものを黒いと言ったら、子分は、それを受け入れなければならないらしい。まるで警察か自衛隊だ。
つまり、子分には自分の意見があってはならないのだ。白いものを黒と言わなければいけない立場は、どう考えても個人的なスジを実践することとは、相容れない立場だ。そんなことで通るスジは、やっぱりヤクザ社会のスジだ。そう考えると、ヤクザ社会のスジも、私たちが普段ストレスを感じている組織や社会のスジも、似たようなものに思える。
それに、現実の世の中は、義理も人情もへったくれもない。経済効率とか、利益とかが優先される。ヤクザは命をコマのように扱われるが、現実の私達だって、取り替えのきく、大量生産された歯車みたいに、使われている。それで世の中も成り立っている。現実社会には、映画の中の高倉健みたいな人が、生活できる余地はないように思う。
似ていると言えば、ヤクザの組は、相撲部屋とそっくりだ。若い人は住み込みだし、最初は無給で、ある程度出世しないと給料も出ない。ヤクザの親と子みたいな関係も、相撲の親方と弟子の関係と同じに見える。
両方とも今では流行らない気がする。その割にヤクザが登場するフィクションが廃らないのは、どうしてなのだろうか? また逆戻りだ。論理的でない私の思考はいつもこうなる。