少年院時代のこと
大学院を出て最初の勤め先が医療少年院だった。
医療少年院、というのは、一般の少年院とは違って専門的な医療が必要な少年を収容する少年院だ。
今振り返ると、まあ、かなり悪戦苦闘して働いていたわけだけど、そこから職業人生をスタートさせたことが、今の自分にかなり影響しているように思う。
私が医療少年院で働き始めて最初にとても強く感じたこと、そして今でも覚えていることは、
「彼女らと私とは何も変わらないんだ」という衝撃だった。
もう少し詳しく言うと、「私が今『先生』と呼ばれて給料をもらいながらこの施設で働いていることは、いろいろな偶然の組み合わせでたまたまそういうことになっているだけで、何かがかけ違えられていたら、『収容されている少年』としてここにいた可能性だって十分ある」ということ。
また、それは私が特別にどうこうということでもなく、ほとんどの人にとってそうなんだろう、とも思った。
とはいえ、それは別に「少年を対等な存在として尊重できている」という何か素晴らしいものとしてあったわけでもない。
どんな距離感で接すればいいんだろうか、それをつかもうと当時は必死だった。指導技術や、根拠法令なんかは先輩に教えられたり研修に参加したりすればわかる。
だけど、自分がどういう「先生」としてそこにいるか、ということは、自分でつかんでいくしかなかった。
「うまいな」「いいな」と思う先輩はいたけど、私がそれになれるかというと、それは無理だった。
わがままな子がいて困っている、と愚痴を言ったら「本当、その子のことをうらやましいと思ってるんじゃないの?」と言われて腹を立てたこともあった。
「あのやり方はおかしいと思う」とひそかに思っていた先輩がやっていることと同じことを自分もしていた、と気づいたときの、ひどく落胆しさみしかった感じも覚えている。
ある子とはうまくいったやり方が別の子には全く通用しなかった悲しさとくやしさも何度となくあった。
こうやって言葉にして振り返ってみると、ネガティブな表現になってしまうが、決してつらかった記憶として残っているわけではなく、なんというか、自分自身の職業生活の畑を耕していたような、そんな時期だったなと思う。畑の土も少し柔らかくなったし、自分も体を動かしてすっきりした。
多分人それぞれ、一心不乱に畑を耕す時期があるのだろうが、私の場合はあの時だったと思う。
医療少年院で少年たちと何回も何回も話をしたこと、その経験に面白さを感じたこと、話をしたり一緒に何かをすることでお互いの存在を確かめていくこと、わかったりわからなかったりすることを繰り返すことに意味があること、それが、今の自分のやりたいことにつながっていると思う。
そういえば、医療少年院にも箱庭の置いてある部屋があって、何度かそこで少年が箱庭を作るのを見ていたはずなのだけれど、なぜか今はほとんど何も覚えていない。
それよりも圧倒的に、あれこれの危機的場面を鮮明に覚えているわけで、きっと、私はあのとき少年が箱庭を作るのを見ながら、「この部屋を出たあと何をどうしていこうか」と頭の中で次の策を練っていたんだろうと思った。
そんな私の前で、あの子はどんな気持ちで箱庭を作っていたんだろうか。
今となれば、その当時10代だった子たちももう中年の域だ。
元気にしているかな。
箱庭のことを少しは覚えているんだろうか。
忘れてくれていても、それはそれで、いいけれど。
幸せになっていて欲しい。