「勇気」とはなんだろう?
性被害を訴えること、告発することを、社会では勇気ある行動と称える。
そのことに対して、強い違和感を覚える。
確かに勇気ある行動ではある。とりわけ、この日本社会では。
勇気がないと「犯罪」であるのに告発できない「性犯罪」を取り巻く異常さ
被害を受けたと言うことに、犯罪に巻き込まれたのだと訴えることに、不安と躊躇いをいなして、危険を覚悟しなきゃならないなんて、オカシイと思わないのか?
刺されたら、当然に訴えるでしょうに。
痛いのを我慢していたら、大変なのはわかるでしょうに。
どうして、性犯罪に巻き込まれたことでの「被害者」は、こんなにもオカシイ立場に追いやられなければならないのか。
訴えたひとの勇気を称える陰で、
訴えられないでいるひとは勇気がない自分を責める。
こんな構造の被害だとか、犯罪だとかが他にあるだろうか?
勇気があるから訴えたんじゃない。
訴えないと死んでしまうから、訴えるしかなかっただけだ。
だからと言って、
訴えられないひとが、訴えなくても生きていけるわけじゃない。
訴えられないひとは、訴える力すらも奪われてしまったから、もはや動くことすらできなくて、死ぬことすらできないほどに動けないのだ。
じゃあ、訴えるひとは、そこまで奪われはしなかったのか?
そういうことではない。
動けないのは同じで、ただ同じようにある生存のための力を訴えることに使っただけだと思う。
生存のためにある力を生存のために使うか。
生存のための力を、激しく燃やして訴えることに使うか。
たとえば、の話。
足を刺されてしまいました。
痛いです。治療したいです。警察にも訴えたいです。
これを我慢することを、誰が強いるでしょうか?
でも、性犯罪に巻き込まれたのなら、それを強いるのが、日本では当然のヒトがいます。男女ともに。一定数。
「たかがそれくらいのことで」系。
「女の子として生きる上で穢されたことは秘密にすべき」系。
「気持ちいなら、Win-Win」系。
「被害者の落ち度云々」系。
「性被害を受けたことは恥」系。
足を刺されて、放っておいたら、どうなるのか?
失血死するかもしれない。化膿するかもしれない。壊死するかもしれない。
でも、怪我のことを誰にも知られないようにしなきゃならなかったら?
自力での治療を試みるのか(消毒や絆創膏かな?)。
足の怪我(刺されたこと)を知られないように、誤魔化しつつ生活するのか。
足が動いていた事実も心臓が動いていた事実も無かったことにするか。
足で歩くことはやめて腕で歩くのか。
たったひとつの刺し傷に拘るのはやめて、いっぱい刺し傷を作って、その中のひとつでしかないってことにして「大したことなかった怪我」にするのか?
性被害者は、そのどれもこれもを、社会に強いられている。
強いたつもりはないだろうけれども、社会の性暴力に対する軽視が、これらに繋がっている。
二次加害への恐怖。社会が加害を容認するかのような態度。
被害届を出すことすら困難である、警察の対応。
司法での、性暴力に対する刑罰の低さ。
性暴力は許せないけれども、自分とは関係のないことだという認識。
後遺症からの行動も愚行権だとかいうもので、見ない振りをしてみたりするヒトもいるらしい。
足を刺されたのなら、そんな選択どれも酷であると言うでしょうに。
どの選択に勇気が要るとか、要らないとか、そんなにないでしょうに。
足の怪我を無かったことを隠して、普通に生きることなんか出来ないのに、どうしてかそうやって生きることが普通ですよ、という常識が日本にはあった。
性被害を軽視するヒトは、この例えは大袈裟だとか思うのかもしれない。
足を刺されたひとと比べるとかは間違いであるとか言うのかもしれない。
擦り傷でも障害事件にとして訴えることは普通なのに、
PTSDに陥る性被害者や、それによって妊娠中絶をした被害者、性器や肛門に裂傷を負った被害者には、どうして二次加害が発生するのか。
どうして、訴えることの「勇気」を称えられなきゃいけないのか?
称えること自体は別に構わない。
でも、なぜ「性犯罪」はそれが普通の対応なのか?
「トラウマ」と「PTSD」の違い
性被害者は、PTSDを発症する確率が、他の犯罪被害者よりも高い。
治療すればいい。と安易に言うヒトは、PTSDやトラウマのことをよく知らないからの発言だろう。
「トラウマ」という言葉を、誰もが簡単に使うようになった。
でも「PTSD」には「トラウマ」体験があれば誰もがなるわけではない。
PTSDの治療には長い時間がかかる。
治療費も、心理療法、カウンセリングは高額だ。
公共交通機関を使えなくなることもあり、通院そのものが困難になったりもする。
様々に生活は壊され、その状態で生活をすることをしなければならない。
治療が上手くいかなくて、または放っておくことになって「慢性化」することもある。
仕事に行けない。学校に行けない。そもそも外出もできない。
生活費を稼げなけなれば、治療も受けられない。
生活すらままならず、治療もままならない。
裁判をするとなれば、弁護費用等が必要で、もちろん自費で、経済はさらに逼迫する。
疲弊した精神に、経済の逼迫がさらに追い打ちをかける。
働けなくなれば、その内に貯金もなくなって、生保に頼らざるを得なくなることもある。そうすると治療先も自由に選べなくもなる。
生保から抜けたくて、治療をしたいと考えても、専門的な治療は生保では受けられもしない。
そもそも、専門的な治療は、地域によっては受けること自体が困難である。
訴えたとて、裁判に勝ったとて、雀の涙のような賠償金をもらえたりするだけだ。
その後の生活が保証されるとか、治療費の保証なんて夢のまた夢。
そこで得られるのは、加害者に罰を与えるということ。それもあまりに低い刑罰。
もしかして訴える勇気とは、そんなもののために?と正義感を嘲笑してなのだろうか。
勇気が必要な犯罪の告発とはなんだろうか。
その犯罪に遭ったとして、泣き寝入りすることが普通ですよね?という社会からの圧力が表れだろうか。
性暴力を軽視した社会で、性暴力を受けた側の責任を問うような社会で、自分は愚かにもレイプされてしまいました!と訴え出たレアな人間という扱いなのだろうか。
卑屈なわたしはそう考えてしまったりもする。
犯罪に巻き込まれてしまったことを、訴えることに勇気が必要であることがオカシイとは思わないか?
瀕死の重傷を負ったら、事件化されて当然ではないのか?
その後の生活、後遺症でめちゃくちゃになっている被害者を、様々に責め立てる社会は異常ではないのか?
その社会を怖れて、訴えもしなかった「勇気ある行動の出来なかった被害者」は、自己責任という論理の元で、現在も孤独に、後遺症に苦しんでいる。
告発をしたら勇気を称える社会なんてクソだ!
強姦神話(レイプ神話)
被害者が陥る正常な反応としての「5F反応」
どうか、正しく知ってください。
愚行権と性的な自傷行為
最後に、愚行権について。
ポルノを見ることも愚行権にて論じられることがある。
自傷行為もそうだ。
性的な自傷行為に陥っているひとは、性被害からそうなっていることもある。それは、そのひとにとって、幸福だろうか?
そもそもの、罪は、なぜ裁かれずにいるのだろうか?
どうか、逃げないで、考えてほしい。
考えてほしい。
あなたの大切なひとが、性犯罪に巻き込まれることは、あり得ないとしたくても、絶対にあり得ないことではない。
あなた自身が巻き込まれることも、あり得ることでしかない。
そのときに、後悔するのは、あなたでしかない。
本当に、死んでから後悔しても遅い。
大切なひとが、死んでから、後悔しても遅い。