小説|走らないで #シロクマ文芸部
「走らないで歩きなさい!」
記憶の中で、教師の声が後ろから聞こえてくる。小学生だった僕はより一層、腕を大きく振って、弾むように上履きの底で床を蹴った。
「走ってませぇん。これはスキップです!」
当時そんなふうに減らず口を叩いた。
思い返せば、子供の頃はよく走っていたような気がする。体育の授業や冬の行事のマラソン大会やらで走る機会も多かったし、大人の目から見ても子供は常日頃からよく走っている。先生に注意をされたあのときの僕は、なんであんなに急いでいたんだっけ?
今も、たまに走る。行きたくもない会社へ行くため、閉まりかけた電車の扉、人がぎちぎちに詰まってもはや壁のようになっているところへ体をねじ込む。隣のサラリーマンが舌打ちをする。
今も、たまに走る。上司の代わりに取引先へ頭を下げに行くため、点滅している歩行者用信号機の青色、間もなく赤色に変わったのも構わずに走り抜ける。車にクラクションを鳴らされる。
今、僕はため息をついている。
大きな赤銅色の月が、夕暮れの空に低く浮かんでいるのを見つけた。なんともなしに眺めながら家に帰って、夜が深くなってからベランダに出てみると、それはいつもの満月に戻っていた。幻のような月だった。
良い夜なので、美味しいホットコーヒーを片手に外を歩く。
「走らないで歩きなさい!」
はい、ちゃんと歩いていますよ。
なんであんなに廊下を急いで走っていたんだっけ?と、子供時代を振り返る。
夜の空気をあてに、僕は黒い液体をすする。吐く息が白かった。鼻腔を満たす香りに酔いそうだ。
苦しみもがく夜に穏やかな眠りにつきたければ酒を、心をさざめかせるままに朝を迎えたいならコーヒーを選ぶ。社会人になってからはそうやって、日々を凌ぐようにしてやってきた。
夜にコーヒーを飲むだなんて、子供のころだったら許されないだろうから、いわばこれは大人の特権だ。
「走らないで歩きなさい!」
そういえば、あの時の僕は走りたくて走ったんだよ。友だちと校庭に出て遊ぶ、たった20分の休み時間のために走ったんだ。それに比べて大人になってからというもの、走りたくなるほどの楽しいことなんて見つからない。
あまりに遠すぎて、子供の時の記憶は幻みたいになってしまった。
飲み終えたコーヒーのカップを潰してポケットの中にねじ込んだ。
先生に注意をされたから、走りたいけれど走れないから、僕はあのときスキップをした。走るよりも遅いけれど、歩くよりも速いその速度は、生意気でささやかな抵抗の表れだ。
今、僕は帰り道で小さくスキップをする。大人だって楽しいもんだぞ。これは子供だった僕へのささやかな抵抗だ。
「走らないで歩きなさい!」
記憶の中の先生が、僕にそうやって注意をする。
いいえ、僕は走っても歩いてもいません。スキップをしたいから、スキップをしているだけなんです。
軽快にスキップして、つまらない今さえも楽しげに通り抜ける。
了
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シロクマ文芸部さまのお題企画でした。
最近新しい話を書いていなかったので、リハビリも兼ねまして参加をしてみした。