山田太一が寺山修司に送った弔辞
たしか、山田太一のエッセイ集『路上のボールペン』を読んだのは17歳のときだった。当時、いろんな人のエッセイを読みあさっていたのだが、そのなかでも特に気に入ってなんども読んだ一冊だ。
いくつか好きな作品があるのだが、一番強く心を揺さぶられたのが、寺山修司に送った弔辞。山田太一にとって、寺山修司は早稲田時代からの大親友であり、その弔辞の中でも「大学時代は、ほとんどあなたとの思い出しかないようにさえ思います」と表現しているぐらい特別な存在だ。
47歳という若さで亡くなった寺山修司に、山田太一が送った弔辞は、あまりにも美しい。かけがえのない友を失った寂しさ、喪失感、そしていまだその死を実感できないでいる様子がありありと伝わってくる。とくに、なんども読み、なんども涙した部分がある。
(省略)私には、あなたは何より、姿であり声であり、筆跡でありました。それらは、かけがえのない魅力を持っていて、いまはただ、とどめようもなく燃えつきてしまった輝きを惜しんで、うずくまるばかりです。
ただただ美しく、ただただ圧倒された。親友が亡くなるという経験などわたしにはないのに、こころの中がどうしようも寂しさで溢れ、逃れられない喪失感を味あわされた。
そして同時に、強い違和感を感じた。この弔辞は誰に向けて書かれたのだろう、と。
いや、それはもちろん寺山修司に向けたものであるのだが、そこには一切、この弔辞の聴き手、つまり弔問客への意識はないのか?と。「こちらの言葉のほうが感動的だ」「この表現はわかりにくい」と、弔問客を意識した推敲はなかったのか?と。
だって、美しすぎるのだ。
大切な友が亡くなったとき、人は途方にくれ、そのうえでぶつけようのない怒りや襲いくる虚無と対峙せねばならず、きっと混乱しているはずだ。そして、それをそのままに書き出せば、こんなに美しい文章にはならない。そのさまざまな混乱を、第三者的に見つめ、聴き手=弔問客にわかるように変換せねば、心打つ弔辞など書けぬはずだ。それは亡き親友のための行為なのか? 物書きとしての自分の虚栄心を満たすための行為じゃないのか?
17歳だったわたしは、美しい弔辞に感動し、涙すると同時に、釈然としない気持ちも抱えた。
長らく、その釈然としない気持ちを抱えていたのだが、20代後半に読み返したとき、我ながらびっくりするほどあっさり理解できたのだ。
ああ、そうか。自分の持てる一番の能力を駆使して、友への想いを表現しただけなのだな、と。画家なら絵で、音楽家なら曲で表現するのかもしれない。山田太一は物書きとして、最高の弔辞を書くことで寺山修司を弔ったのだ。そしてその弔辞は、弔問客に向けられたものではなく、やはり親愛なる友を想って書かれたものなのだろう。
40歳すぎた今、読み返してみて、さらにその思いは強くなった。だいたい、無理なのである。大切な友を亡くし、こころが友への想いで溢れるなかで、弔問客への配慮などできるものではない。17歳のわたしに、死という概念は遠かった。今も近いか?と問われれば、否だろう。ただ、やはりこの20年以上の年月のなかで、親しくしていた人を病気、あるいは自死で失った経験は皆無ではない。そのときに感じたやるせなさ、自分の無力感は、こころの中にザラザラとした感触で残っている。友を亡くして弔辞を書くという行為を、ほんの少しだけリアルに想像できるようになったのだ。
山田太一先生を例にとって自分を語るおこがましさは重々承知しているつもりだが、わたしにとっても自分が持てる一番の能力は何か?と言われれば、それはやはり言葉なのだと思っている(そもそものレベルの違いはおいておく)。今、わたしは大切な人へ送る言葉を持っているのか? ある、と言いたい。が、正直なところ、あるのかどうか、まだあやふやである。だけど、願っているのだ。売れないライターとして隅っこで生きていても、自分の大切な人に対してだけは、世界中の誰よりも美しい言葉を送れる人間でありたい、と。