我が家では毎日ヤクルトを配達してもらっていた。ふたりの姉とわたしの分、3本。幼いわたしにはそのヤクルトは日々の楽しみの一つだった。 ある日、冷蔵庫を開けたらヤクルトが3本入っていた。まだ学校から戻ってきていない姉の分も含めて3本。 そのとき猛烈にヤクルトを独り占めしたくなった。台所には誰もいない。母は離れた部屋にいる。今飲んでしまえば、誰もわたしの仕業だとはわからない。だから飲んだ、3本全部。空の容器はゴミ箱に放り捨てた。 誰もわたしがヤクルトを飲んでいるところを見てい
録画していたドラマの最終回は、期待に反してまったくつまらなかった。毎週、楽しみに観ていたのに最後がこれか、と。もう物語の展開はだいたい見えて、あとは予定調和に収まっていくばかり、という段階で、わたしの意識はアパートの外に向いていた。 ドラマを見始めるまえ、外で男の声が聞こえていた。二人? 三人か? 何を話しているかは聞きとれないが、ケンカをしているような激しい口調だったり、酔っ払ってご機嫌なときの口調だったり。その会話がポジティブなものなのか、ネガティブなものなのかは測りか
30歳ぐらいの頃の話。 会社の女性陣の間で、ある占い師にみてもらうのが流行ったことがあった。確か、うちで発行していたタウン情報誌で取材したことがブームのきっかけだった。私はその媒体に関わっていなかったので詳細は知らないが、多分、当たるというので取材に行ったのだと思う。だけど、うちの会社で流行ったのは、当たるから、というより、おもしろいから、だった。 例えば、後輩のAは、「運命の相手は剛毛」と言われた。 ごうもう? GOMOU? 剛毛? Aの小指から伸びた赤い糸は、途中か
書くという行為は気持ちを整理することだ。今、私は自分の気持ちを整理するためにnoteに向かっている。多分、長い独り言のような文章になるだろう。 11月16日の夕方に、18年間一緒にいたちびさんが逝ってしまった。14歳頃から持病持ちで、毎日の投薬や1週間に1度の点滴をやってはいたけど、それなりに普通に暮らしていた。2000年生まれで、2020年の東京オリンピックまでは生きてると思ってた。なんの根拠もないけど、20歳まではのんびり暮らすんだろうって。 10月15日、大阪の日帰
たしか、山田太一のエッセイ集『路上のボールペン』を読んだのは17歳のときだった。当時、いろんな人のエッセイを読みあさっていたのだが、そのなかでも特に気に入ってなんども読んだ一冊だ。 いくつか好きな作品があるのだが、一番強く心を揺さぶられたのが、寺山修司に送った弔辞。山田太一にとって、寺山修司は早稲田時代からの大親友であり、その弔辞の中でも「大学時代は、ほとんどあなたとの思い出しかないようにさえ思います」と表現しているぐらい特別な存在だ。 47歳という若さで亡くなった寺山修
また、ストリップかよ、と言わないで! 先日、初めてストリップを観に行った経験をnoteに書いた。 いつも、noteに記事を書くと、Twitterでシェアする。わたしのTwitterはフォロワーが100人台。無名ライターのわたしのnoteを読んでくれる人なんて、あまりいなくて、Twitterで10人ぐらい「いいね」を押してくれたら、わたしとしては上出来なのだけど、なんとこの記事は62人もいいねを押してくれた。ツイートのインプレッションも5000近くに伸び、リンクのクリック回
いや、平成最後の夏とか関係はないんだが、ストリップを観にいった。きっかけは、初めてのストリップ体験を書いた知らない人のブログ。男性が書いたものだったのだが、その興奮、感動がリアルに伝わってきて、ひどく興味を覚えたのだ。ひとりで行くほど度胸はない。20代の男子ふたりを誘って行った。今、わたしは放送作家講座なるものに通っていて、そこでできた友人だ。 もともとは、知り合いが働いている歌舞伎町のバーに誘ったのだ。その知り合いにお世話になったお礼を言いに行きたかったのだが、なんともデ
友人に「教師がきらいだ」という人がいる。彼は教師にきらわれるタイプの子供だったらしい。小学生のころ、いたずらをしでかして、担任に怒られたはなしは秀逸だ。 担任「クラス全員、おまえが悪いと思っている」 友人「なら挙手をお願いします」 (手を挙げない人がひとり) 先生「ほら、おまえが悪い」 友人「全員ではありませんね。 先生は間違ったことを言いました。 まずは訂正してください」 (担任、ふるえながら彼をにらみ、平手打ち) うん、なんというかクソガキだったんだろう(笑)。本人も
母が言うには、わたしは5〜6歳のころから日記を書いていたそうだ。自分で記憶があるのは小学校に入ってから。1年生のころから宿題でもないのに、毎日、絵日記を書いて、担任の先生に提出していた。 たいていの先生は、自主的に日記を提出するわたしをほめてくれたし、毎日、感想を書き添えて返してくれた。その感想を読むのが楽しみで、それが日記を書くモチベーションになっていたと思う。というのも、小学3〜4年生のころ、提出してもただ◯をつけるだけで返却する先生が担任になり、日記を書くのが楽しくな
会社で女性の同僚と他愛のない世間話をしていたら、突然、怒りを向けられたことがある。たしか、その当時ハマっていた料理のレシピの話をしていたときだ。 わたしは料理がわりと好きで、こまめにつくるほうだと思う。そんなに手の込んだものはつくらないが、家に友人を10人ぐらい招き、ホームパーティをして家庭料理をふるまったりもする。だから、何の気なしに発した言葉だった。 「まあ、料理は趣味みたいなもんだから」 そこに彼女が反応した。みるみる間に怒りの表情を浮かべ、毒々しい声でこう言った
私が出会った妖精の話をする。 妖精の名前は森口くん。下の名前は知らない。出会ったのは私が20代前半の頃で、会社の先輩が皆、森口“くん”と言ってたので、私もそれに習ったが、たぶん森口くんは私より年上なんじゃないかと思う。 私はその当時、熊本の地方出版社に勤めていた。森口くんは、うちの会社にたまにやってくる小太りでメガネをかけた、おそらく発達障がいのある男性。突然ふらっと現れては、うちで発行している雑誌に関する感想や要望なんかをひたすらマシンガントークしていく。その大半は支離
タイトル通りの話。 友人に誘われて、40年ちょいの人生のなかで、生まれて初めてお笑いライブに行ってきた。平日の15時15分開場、15時30分開演。ちょっと早めに行って席を取った方がいいんじゃないかと、待ち合わせは15時。時間ぴったりに劇場前についた。ちらほらと劇場前にたむろっている人がいる。ただ、よく見れば、それはこれから出場する芸人さん達のようだ。楽屋が狭いのか、劇場の入り口付近で、皆ブツブツとネタの練習をしている。客と思わしき人は私たち以外に見当たらない。 早く来る必
“ピンポーン” 「来た!!!!」 昨日の夜、アマゾンで2018年4月号の『Casa BRUTUS』をポチった。特集は「CAFE&ROASTER カフェとロースター」。最新号ではない。すでにもう7月号まで発行しているようだ。今日一日、『Casa BRUTUS』が届くのを心待ちにしていた。 届いてすぐにページを開いてみた。 「どこだ? どこに載ってるんだ?」 ページをめくっていくと、程なくして1ページに6軒ずつ、1枚の写真と120文字程度の文章でカフェを紹介している「ぼくのカ
人は時速4キロで歩く。 それを知ったのは、彼女と週末ごとに 長距離散歩をするようになってからだ。 目的地は温泉や銭湯。 お風呂好きな彼女を、 なんとか外に引っ張り出すために考えた策。 最初は5キロだった。 次第に距離が長くなり、 今日はこの残暑厳しいなか、 20キロの道のりを歩いている。 太陽が容赦無く照りつけ、 アスファルトから熱風が湧き上がる。 「車ならすぐなのにね」 彼女の言葉に笑いながら、ペットボトルを渡す。 職場になじめず休職中の彼女は 「立ち止まっている私
来週、東京に旅立つ。 30歳過ぎて転職をしたのだ。 東京生活への期待と、 地元を離れる不安の両方がある。 旅立つ前に、 入院しているばあちゃんに会いに行った。 最近、ばあちゃんは 私が誰だかわからない日がある。 今日はわかるかな? その心配は杞憂に終わり、 ばあちゃんは私を見てにこにこしていた。 東京に行くの。転職したの。 うん、うんと頷くけれど、 どこまで理解してくれているだろう。 引き出しからばあちゃんが財布を取り出した。 ああ、また1万円くれるんだろう。 いつもの
突然、父と母が木曜日から二泊三日で東京に来ると言う。 宿泊先以外はノープラン。 なるほど、私がガイドか。 木曜日、会社を休んで羽田まで迎えに行った。 浅草寺へ連れて行けば、人が多いと文句ばかり。 でも、テーブルマジックを見せるイタリアンでの夕食は 割と反応がよかった。 金曜日は早朝からホテルにお迎え。 通勤ラッシュにうんざりした顔のふたりを なだめながら電車に乗せ、東京駅へ。 鎌倉行きのはとバスに乗せる。 「一緒に行かんとか?」 うん、2日間も休めないの。 夕方、東京駅に