人生はディティールで構成されていることについて
江國香織さんの本がすきだ。
なぜなら、江國さんの書く物語は、とるにたらないことで構成されているから。
たとえば、『冷静と情熱のあいだ』にはつぎのような描写がある。
目がさめて寝室がうす暗く、水音がきこえるとぐったりしてしまう。雨は好きじゃない。昼間こうして部屋のなかで本を読んでいても、膝の裏に触れるソファの質感が水を含んでいるし、頁をめくるたびに湿った紙の匂いがする。
マーヴが仕事から戻ったとき、私はすね肉をセロリと煮込みながら、台所で本を読んでいた。「ただいま」うしろから、頭のてっぺんにキスをされる。「おかえりなさい」とどこおりなく流れていく、マーヴと私の生活、私たちの人生。
これらの描写は登場人物たちのまったく個人的な見解・思考であり、まったく個人的な日常である。
「雨は好きじゃない」ことなんてどうでもいいし、「マーヴと私の生活」なんて勝手にすればいい。
これらのことはわたしになんの関係もないし、世界全体にもなんの影響も及ぼさない。
これは物語全般に言えることだが、物語に含まれる描写はどれもが個人的なのだ。
誰かが恋に落ちようが、誰かが殺されようが、誰かの人生が狂おうが、わたしには無関係。
たとえば、わたしはときどき道行く人を眺めて、「ああ、あの人にもあの人の日常があり人生があるんだな」と考えることがある。
それはとても不思議な気持ちになることだ。
不思議で、愉快で、とてつもなく寂しい。
江國さんの書く物語は、先ほど引用したような、個人的で美しいディティールで彩られている。
そのほかにも、音楽について、映画について、季節の移ろいについて、食べものについてなどなど。
物語の筋にはこれっぽちも関係ないような、ひとりの人間のプライベートな日常のひとコマなのに、なぜだか読んでいてわくわくするし、とてつもなく安心するのだ。
安心。
これこそ、わたしが江國さんの本に求めるものだと思う。
わたしは、誰かのとるにたらないディティールを読んで安心したいのだ。
なにも、充実した毎日を送らなくていい、常になにかをうみだす必要なんてない、立派な使命を全うしようなんて思わなくていい。
人生を意味あるものにする必要なんてないと、許されたいのだ。
人生を意味あるものにしようとすると、どうしても人生というものを俯瞰して見てしまう。
高いところから見下ろして、「はたしてわたしの人生に意味はあるのか」「この人生に価値はあるのか」と考えてしまう。
もちろんそれも悪くない。
なにか目標をもって野心的に生きている人にとっては、俯瞰の視点は重要だろうし、辛い状況にいる人にとっては、「こんなことは世界規模で見ればたいしたことではない」という慰めになるだろう。
でも、人生は生きるためのものだ。
遠くから眺めるためのものではない。
俯瞰するかその渦中で生きるかはどちらかしか選べず、俯瞰しているときには、立ち止まって人生そのものから離れてしまっている状態になる。
ときどきならまだしも、常に人生を俯瞰していては、人生を生きることができない。
だから、ディティールなのだ。
大きなことではなくちいさなことに目を向けること。
みんなに共通のことではなく、誰からも理解されないような個人的なことに目を向けること。
そんなディティールの詰まった江國さんの物語が美しいのだから、しあわせなディティールで満たしたわたしの人生も、きっと美しくなるはずだ。