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親ガチャ

AbemaPrimeで見た親ガチャについての動画で色々思う事があったから書く。

私は月の家賃五万円の古い家で生まれてから20歳前までそこに住んで過ごしていた。家を持っている友達とその親が羨ましかった。今も一軒家、特に新築を見ると心が痛くなる。羨ましい、羨ましい。狭いアパートで自分の部屋なんてものはずっと無かった。

生まれて数年後に親は別れて母子家庭で育った。母に毎日殴られたり蹴られたりしていたことを今でも鮮明に覚えている。常に恐怖に包まれていた。節電の為にと電気が一灯しか付いていなかった家の薄暗い空気が全身に刺さって痛かった。

小学校が終わったら祖父母の家で世話を焼いてもらっていたが祖父母はそれこそ「昔ながらの人」であったから母との関係は途中からうまく行かなくなり、それに伴って私と兄は家の鍵を持った。家に帰ってからはずっとテレビを見ていたがあまりよろしくないと思ったのかテレビは捨てられた。さらば、ホコリの積もったブラウン管。

母子家庭でお金が無く常に親に怯えて生きていて、ストレスから万引きにも手を出した。確か中学校に入る前か後かそのくらい。お腹が空いていた。キラキラしたパッケージのお菓子の陳列棚が疎ましかった。毎日二千円以上のお菓子を盗っていたと思う。(あとから親が分かる範囲で支払いに行ったらしい)食卓は食パンか豆腐、白米、もやし。真っ白…と思った覚えがある。児相は役に立たなかった。

嬉しかった事が全く無かったわけではなかった。小学6年か中学1年の時に赤い色鉛筆が無くなり赤ペンがほしいと言ったら「チェリーの香りがするインクの、チェリーが印刷されたボールペン」を買ってくれたのだ。普通のボールペンに比べて約60円ほど高かったか。この60円は貧しい家庭にとっては大きな違いなのだ。

「これにする…?」と親に言われた時は驚きと喜びで心が生き返った。他より高いのに良いの!?と思ったが値段や見た目云々より「お金がないのに親がこれを買ってくれようとしている状況」に感動した。余りにも嬉しくて大事で、その後3年以上中の芯を変えながら大切に使っていた。

画像の一番左のもの。

親は生活が苦しいからともっと働いた。平日は会社で正社員の事務をし、土日はフルタイムでクリーニング店のバイトに出かけていた。私がいつも昼前に起きるとすでに親はいなかった。そして稼ぐと引かれる…と常にボヤいていた。

母は途中で変なネズミ講にハマり謎のサプリに十万円かけそうになっていたが、それはさすがにとやめたそうだ。知らない人の家に連れて行かれてケバいおばさん達の中でよくわからない製品を勧められたのはよく覚えている。アムウェイの鍋も家にあった。ネズミ講のシステムはあまり好きではないが製品自体は耐久性が高く気に入っていた。

転機は私が高校1年生の頃だったか。スマホが無く友達もいない上に一人が好きな性質もあり常に図書館に籠もっていた。そこでふと面白そうな本を見つけたので親に勧めてみた。題名は忘れたがイラストが多く使われている仕事をやめたい鬱の人のエッセイだったか。

本の中に「あと少し、あと少し頑張ろう…と思って進んでいたらもう超えられない山があって、そこで絶望した」という節の文章と絵があって「あぁ、この気持ち分かるわ…」と親が涙ぐんでいた。私は深く考えず「じゃあやめればいいじゃん」と言った。親は激怒した。ただ、普通の怒りというよりかは誰にも向けようのない悲しみが多く混じっているのを感じた。

そして親は仕事をやめ、生活保護になった。

私はそのまま高校を卒業し、就職した。そもそも「うちには大学に行かせる金なんてないよ」と常に言われていたので仕方がなかった。それは私に取って大きな問題ではなく人生を生きてきた中で山程あった諦めの一つでしかなかった。かっこいいからというしょうもない理由だが、本当は美大に行きたかった。

高校は美術、デザイン系の学科だったが初期に揃えた物で無いとどうしても課題が進められなくて困るという物以外は追加で画材は買わなかった。高いからだ。あらゆる賞を取ってその景品でもらえる絵の具で次のコンクールのイラストを描いていた。デザイン系の課題は学校のMACを使って作業したりしていた。学校に通っていて一見普通…むしろ成績も良くきちんとしているように見えても貧困は確実に存在する。

生活保護世帯は大学に行けない。そもそも行かせるようなお金があれば、稼げるなら生活保護は受けられない。教育ってのは平等なんかじゃない。貧困は連鎖する。給付型奨学金を貰えば?と言われるかもしれないがそもそもそんなものがあるという情報すら知らなかった。

そして奨学金を貰えたからと行って下宿先や教材、食費はどこから出るのか。それはバイトで…と思うかもしれないが、毒親育ちにそんな胆力は残されていない。死なない事だけで精一杯だ。

そして真面目に就職した。そこで私がいかに世間とズレているかを痛感した。最初は面白い子だなと大事にされていたが残業を当たり前にしている職場の人の日本人的な気質と私の性格が合わなくなっていった。また、親の偏った考えを真面目に受け取りそれを履行していた。会社ではきっとかなり浮いていた生意気なバイトだっただろう。

上司からの叱責に反発して3ヶ月休んで適応障害で傷病手当を貰ったり、会社の階段で転んで「この職場は今まで労災とか出さなかったのよ…(本音:面倒な事を言わず自分で治して)」と言われたが労災をもぎ取った。(適応障害についてはこの後発達障害の二次障害だったと分かる)

そしてコロナの煽りもあり仕事をクビになった。次の仕事を探すまでの間…有給期間に親に出ていけ!!!と毎日怒鳴られ心は疲弊していった。

そして家から逃げた。

お金は一定額貰えているし医療費は無料、適応障害で手帳を交付してもらっているのでバス代は半額…こういった支援は受けているし有り難い事はもちろんなのだが、やはり最低限度の生活になる。ユニクロや無印の服は買えるがZARAやH&Mは買えない。格安スマホは持っているがパソコンは買えない。

こうなると生活保護を抜け出した次はどうなるか。パソコンの使い方が身につかず仮に専門分野でその人に才能があったとしても発掘されない。そして非正規雇用でカツカツな日々をまた生きることになる。

大学で勉強出来る、パソコンと下宿先がある、人とまともに話が出来る、親との仲が良好で小さい頃から家計の心配をしたことがない時点で、それは親ガチャ成功で当たりくじで祝福すべきことだ。

親のご機嫌取りは人生の、自分の役には立たない。親に無理矢理勉強をさせられて自由が無かった人もいるだろう。しかしそれは後々役に立つ。私は他人の為に人生を生かされた。だから模試で判定が出ないだの赤本が云々と言っている人たちが羨ましい。穿った見方をすれば奨学金の返済が厳しいと言って悩んでいる人が羨ましくなってくる。

親ガチャという言葉は好きではない…自己努力が足らない…と言う人は同じ状況で育たないと絶対に、絶対に理解出来ないだろう。自分が強くあれるのは親から否定されたことがないからだ。人のご機嫌取りをして必死に自分の命を守ろうとした経験がないからだ。自己努力すらしようと思うに至れない程に悲惨な環境を知らないからだ。

自由になって約8ヶ月。
私はやっと生後8ヶ月を迎えたのだ。
よちよち歩きで自分の人生を探している。


ご一読感謝。

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