Hakataya
嚴島管絃祭をいくつかの視点で紹介する記事
「場所」でみる平和式典と管絃祭2016年-2017年資料館付近の発掘調査が行われた。 ピロティーの足元からは、被爆当時の遺構が凍結保存されたかのような、そのままの形で発掘された。 ピースセンターコンペ案において丹下健三は平和大通りに対して十字を切るような形の原爆ドームにセンタリングされた軸線を計画 し、原爆ドームが保存され、平和と慰霊の公園として整備される大きなきっかけとなったことが思い起こされる。 一方で、被爆以前の街並みの記録をひも解くと、この軸が交わる接点の現在
広島3大祭りといえば、5月のとうかさん(圓龍寺稲荷大明神)、11月のえべっさん(胡子神社)、と住吉神社の例祭「すみよしさん」。今日の規模をみると、とうかさんとえべっさんはずっと上ですが、すみよしさんは他二社と肩並べて遜色のない祭礼であった事実を逃してはならない。 その理由は旧暦6月17日斎行される嚴島神社の管絃祭を祝う状況の中で生まれ育ち、営まれた神事だからである。原爆投下前の旧暦6月17日とその前後の期間は、旧広島市城の各所で管絃祭に関する様々な祭礼行事が行われ、多くの人
御供船の由来管絃祭の御座船に御供にする船のこと。 その起源について、「正徳元年(1711)頃、広島城下紙屋町の釣燈屋3代目市兵衛が嚴島神社の棚守職野坂氏の依頼により、管絃船が濡れないように雨具を寄進し、以降毎年手船で管絃船の供をした」という伝えがありました。 御供船の盛況「厳島図会」には「16日の夕刻までに広島城下を流れる京橋川・元安川・猿猴川・平田屋川および本川から華麗な装飾を施した御供船が集まり、夜中一斉に宮島へと向かう様子、漕ぎ出すときの三絃・笛・太鼓を入れる祇園囃
午前の満潮時に阿賀の漕船によって御座船を大鳥居沖まで曳船する。その後江波の漕船が桝形(客人神社の祓殿と廻廊で囲まれた所)に入り、船を三廻する。その時、漕船で唄う木遣り歌と采振りの動作が見物である。終わると一同本社に参拝する。 16:00 御本殿出御嚴島神社の御本社で出御祭が斎行される。拝殿から阿賀漕船奉仕者に渡し、高舞台を進み、行列はそのまま海浜に降り、大鳥居を通って御座船に進む。 16:40 大鳥居前の儀一同乗船が終わると祭典を執行され、引き続いて管絃が奏する。管絃が終
市立祭(いちだてさい)(旧暦6月5日)江戸時代には春・夏・秋と市が立ったが、夏が最も盛大で、市の間に、境内臨時の露店が出されて、芝居なども行われていました。現在は市がなくなり、当日朝9時に嚴島神社の御本殿にて市立祭が執行され、その後舞楽が奉奏されます。 御洲堀(おすぼり)(旧暦6月11日)大鳥居の内の御座船が通る道を整えるための儀式です。大竹市、廿日市市、広島市の人々によって奉仕されます。 御船組(おふなぐみ)(旧暦6月15日)客社神社前で三隻の和船をつなぎ、根太(ねだ)
管絃祭の由来推古天皇元年(593年)に社殿の創建された嚴島神社は中国地方の由緒深い社です。厳島が一躍その名を知ら得るようになるのは1100年代後半の平清盛をはじめとする平氏一族の厳島信仰からであり、仁安3(1168)年平清盛と嚴島神社神主佐伯景弘により造営し、現在と同程度の大規模な社殿が整えられたそうです。 嚴島神社の祭典の中に最も名高いのは「管絃祭(旧暦6月17日)」です。「雅楽の管絃は奈良時代から平安時代にかけて都で盛行したもので」、清盛はそれを嚴島神社に移し、「都の苑