嚴島管絃祭の歴史

管絃祭の由来

推古天皇元年(593年)に社殿の創建された嚴島神社は中国地方の由緒深い社です。厳島が一躍その名を知ら得るようになるのは1100年代後半の平清盛をはじめとする平氏一族の厳島信仰からであり、仁安3(1168)年平清盛と嚴島神社神主佐伯景弘により造営し、現在と同程度の大規模な社殿が整えられたそうです。

嚴島神社の祭典の中に最も名高いのは「管絃祭(旧暦6月17日)」です。「雅楽の管絃は奈良時代から平安時代にかけて都で盛行したもので」、清盛はそれを嚴島神社に移し、「都の苑池や河川で行われたものを海上で行い、神様を慰めることは目的でした」。海上で行うため当初吃水の深い貿易船を使用されたため、潮位が高いのは絶対条件となった。旧暦の7月から9月頃に潮位は高くなるが台風のリスクも高いため、6月にしたそうです。また「旧暦の6月とは、1年に一度山の神である大山咋神と水の神である市杵島姫命が出合い、天と地が顔を合わせる月で、7という数字を重視した七政により十七夜が選ばれた」という陰陽五行思想からくるものという説もあります。

現在の管絃祭

管絃祭ファイル 293

「和船3隻をつなぎ合わせて屋形をしつらえた御座船(管絃船)の上では管絃が奏される。御座船は阿賀(呉市)2隻と江波(広島)1隻の人たちが漕ぐ、3隻の漕ぎ船に引かれる」。

平家滅亡後も管絃祭がおこなわれたかどうかはわからないそうで、元禄14(1701)年に、御座船が嵐に遭い、遭難しかけたときに阿賀村と江波村の船がいち早く救援に向かったことから、以来漕ぎ船は「阿賀」と「江波」の両村が奉仕するようになりました。

参考資料:

「厳島信仰事典」野坂元良 戎光祥出版

「宮島本」廿日市商工会議所

「厳島管絃祭の期日に関する陰陽五行思想からの考察」曽我とも子



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