回文の人/短歌の人に回文短歌を見てもらう

いちごつみ回文短歌/短歌調回文座談会の編集後記と称して、回文短歌(上から読んでも下から読んでも同じ短歌)の評価軸について思うところを述べたところである。

その評価軸は「回文としての評価軸」と「短歌としての評価軸」の論理積なのか論理和なのか、はたまたもっと別のものなのか。

回文を作る人と短歌を作る人でそもそも評価軸にどんな違いがあるだろう、と気になったので、自作既発表の回文短歌について、主として回文を作る人が評する場所(回文21面相)と、主として短歌を作る人が評する場所(私のツイッターのフォロワーさん)での点数を相対化して関係を示したのが以下の図である。(私のツイッターのフォロワーさんはおそらく回文よりは短歌あるいは詩歌関係の方が多いと考え、このような前提を設けた。)両者で票を投じてくださった方々、ありがとうございました。

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右のグラフの破線は回文としての評価と短歌としての評価が等しいことを示しているので、破線より左上は「短歌としての評価」がより高い、破線より右下は「回文としての評価」がより高いことを示す。破線に近いものもあれば、破線から離れているものもある。「回文としての評価」のN数が少ないのであまり厳密なことは言えないかもしれないが、
E. 死後なのかピストルか火が遠く哭く音が光るとスピカの夏越/袴田朱夏
は「短歌としての評価」が「回文としての評価」を上回り、一方、
H. 禿げ頭止まる的たまたま気づきまたまた止まる的また揚羽/袴田朱夏
は「回文としての評価」が「短歌としての評価」を上回った。また、両者の評価がともに高かったのは
F. 痛み耐え呼気が遠のくどこからか孤独の音が聞こえたみたい/袴田朱夏
である、ということくらいは言ってもよさそうだ。

さて、これをもとに、例えば E. の回文短歌にはこれこれこういう特徴があるから…と議論を進めたいところだが、データ数が少なく、道具も持ち合わせていないので、ここでは控える。が、なんとなーく、意味の通りがいいものやコミカルな内容のものは回文としての評価が高くて、意味の飛躍があるものは短歌としての評価が高い、ような気がする。「意味の通りのよさ」の定量的な指標(道具)があれば議論できるかもしれない。

投票の時に「回文(または短歌、または回文短歌)として評価してください!」と陽に明言していないので、本当に回文を作る人が回文として評価したかはわからないし、短歌についても同じである。あとは、私の作った回文短歌だけで議論していいのか、という問題もある。…と、いろいろ欠点のある内容ではあるが、時代の趨勢であるビッグデータの研究者がこれを目に留めて、もっと大きな母体での研究を進めてくれたらなどと夢想を極めつつ、文章を終えたい。

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