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なぜ「実らないかもしれない努力をやり続ける」のか

2024年パリ五輪が閉幕を迎えた。

道民としては、旭川市出身の女子やり投げ・北口榛花選手の大投擲と金メダルに涙した。
一方、2回戦で敗退した女子柔道・阿部詩選手の叫びも未だに脳裏をよぎる。

最も印象に残ったのは、この一言だった。

実らないかもしれない努力をやり続ける

これは特定の選手が発したものではない。
テレビでメダルの振り返りをしている際に、字幕スーパーて出た言葉だ。

私は出先で繰り返し脳に焼き付けた。
決して他人事でも、雲の上の人が言うことでもなかったからだ。

私たちは、努力すれば一定の結果、あるいは対価が出るものに慣れている。

暗記をすれば学校のテストでそこそこ正答にできる。
どんな業務内容でも、勤務態度でも、時給や固定給が示されていれば決まった額が得られる。
「確定」が大好きだ。

逆に、確証のないことに労力を割くのは、まず勇気がいる。

歳を重ねるごとに、無意識のうちに「失敗しない」ものごとの選び方をするようになる。
「やってみなければ分からない」と飛び込める人は限られており、大抵の現代人はおそらく、根性論を嫌う。

日本人は特に真面目だから、エジソンのような「失敗=上手くいかなかった方法」なんてスーパー屁理屈を叩く人はあまり見かけない。

実らないかもしれない努力をやり続けるというのは、宝くじや博打とは違う。

自分でコントロールできない他者、あるいはもっと大きな力の流れに左右されるのだ。常に。

人は安心していたい。安定ともいえる。
私だって扶養という安定があるからこそ、不安定な小舟で大海原に漕ぎ出せた。

なぜわざわざそんなしんどいことをするのか。
そこには、可能性があるからだ。
100%でもなければ0%でもない、不確かな揺らぎ。

ひとつ言えるのは、「どうせ自分は」としょぼくれている人間はもれなく、0%ということ。
勝手に悲観して、あきらめているからだ。

確証はない。
だから100%に近づけるよう、努力する。
やれるだけのことをやる。最善を尽くす。

オリンピック選手の努力は想像が追いつかない。ただ思いを巡らせるしかない。

なぜやり続けられるのだろう。
なぜそこまでして可能性に懸けられるのだろうか。

それはたぶん、懸けたいと切に願うほど、情熱が胸の奥底に渦巻いているから。
一般人の私には、そんな単純な想像が精一杯だ。

さまざまな生き方が認められつつある世の中で、実らないかもしれない努力をしている人は増えているだろう。

いえるのはふたつ。

あきらめないこと。
真に情熱を懸けられるものに対し努力すること。

苦しみは確かにあるだろう。
だけど決して悲壮なものではない。
楽しさがあるから、やり続けられるのだ。

「まだ戦いたい」と瞳に闘志を宿す選手。
競技の楽しさを知ってほしいと朗らかに語る選手。
いつも笑っているけれど、努力が実った瞬間は大切な人たちと抱き合い涙を流した選手。

まずはお疲れ様でした。ありがとう。
すべての選手に敬意を込めて。


※ヘッダーはみんなのフォトギャラリーからお借りしました。ありがとうございます。

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おおやまはじめ/手帳と暮らしのライター
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