92’ナゴヤ・アンダーグラウンド(3)「悲しみは雪のように」
第三話 「悲しみは雪のように」(1992年冬)
クリスマスまであと一週間。空気が澄んでいるのか星のきらめきも鮮やかな夜空の下だ。
この住宅街は、名古屋市都心の灯りから遠いため、オリオンの三つ星まではっきりと見えた。
午後十時を過ぎて、家々からは夕餉の気配も消えている。
この小牧市は名古屋市の北に隣接するベッドタウンだ。名古屋鉄道の沿線沿いにいくつもの分譲住宅地を抱えている自治体で、さらに名古屋空港もある。
この田神住宅もそのベッドタウンの一つだ。まだ新しい建売住宅が並んでいて、住人達も子育て中の若い夫婦が多かった。
久利は、住宅街の一角に車を停め、一軒の民家を注視していた。
山村の取引相手、銀巴里商事の社長宅である。
滞っている未払い広告料は300万円近かった。
社長は「必ず払う」と言いながら、絶対に久利達と会おうとしなかった。逃げているのだ。
返品や差し押さえが不可能な「広告」という商品は、相手が潰れたり逃げたりすれば、全額を広告会社が背負ってしまう。この案件は寸秒を争う緊急案件だと感じた。
幸い、登記簿から社長の自宅が判明した。住所を見ると、久利の済むワンルームの賃貸マンションから近い。そこで、山村に替わって出張ってきたのだ。
玄関口では、
「主人はまだ帰ってきていません」の一点張りだった。だが、駐車場に社長の車はある。居留守だろうと判断した。
「明日、もう一度連絡します」と言って一端退いたが、明日家を出るところを捕まえて話をしようと決め、こうして車の中で夜を明かす覚悟を決めたところだった。一度でも目を離すと、その間に高飛びされるかもしれない。
うとうとしかけたとき、コンコンと車の窓を叩く音がした。目を開けると警官がのぞき込んでいる。
窓を開けると、
「近隣の住人から、不審な車があると通報がありました。降りてください」
翌日、出社と同時に久利はアドプランニング・遊の社長室に呼ばれた。
部屋には社長の湯沢と経理部長の花沢がいた。
「例の銀巴里、訴訟案件になったから、もう営業は関わらなくていいよ」
社長はにやりと笑ってそう言った。
「警察から連絡受けて、びびったよ。
債務者宅への夜討ち朝駆けは法律違反ですよと、警告まで受けました」と花沢が忌々しそうに言った。
「まあまあ、そこまでやったから訴訟案件に持ち込めた側面もあるから」と湯沢が取りなすように言った。
「でも、もう以前とは違います。貸金業法など改正の話も出ているし、刑事訴追されては逆効果だ」と花沢。
「まあ、経理も、ここまでやらないと、営業の手を離してくれないですしね」と久利は皮肉に笑った。
好きでヤクザまがいの集金や張り込みをしているわけじゃない。そこまでやらないと会社も諦めてくれなかったからだ。
むしろ大事件になった上で、警察やマスコミに向かって大声で、
「すべては会社の命令です」と言い放ってやりたいぐらいだった。
花沢は苦虫をかみつぶしたような表情で久利を見ている。厄介極まりない社員だが。彼が未収案件の解決に貢献していることも否定できないからだ。
一階の自販機コーナーである。久利はベンチに腰を下ろして、午前中からエナジードリンクを飲んでいた。昨夜の疲れが抜けないのだ。
エレベーターが降りてくると、山村が出てきた。
「先輩、やっぱりここでしたね」
「最近、事務所でみんなと居るのがおっくうでね」
「僕の回収ですみません」と山村は頭を下げた。
「君のせいじゃない。俺自身の問題さ」
「でも。」
「謝るなよ。俺も昔は先輩に救われてきたんだ」
「ええ?久利さんが」
「君みたいに何度も救われた。先輩にお礼を言ったら、この恩返しは、自分の後輩を救うことだぜ、って言われたんだ。だから気にするな。
今度は君がだれか後輩を救えばいいんだ」
「なんか、いい話ですね」
そう言って山村は「はっ」と気づいたような表情になった。
「最近、そんないい話によく出会うんです。セミナーのおかげかな」
「セミナー?」
「ライフチェンジャーってセミナーですよ」
聞くと、山村が最近通っている自己啓発セミナーだという。
「おかげでネガティブになりがちな僕も、ポジティブシンキングが出来るようになりましてね。そうすると色々な気づきがある。さっきの先輩の言葉とか」
久利には、山村の真面目さが虚無的になる前の自分のように見えた。
近年、彼のような地味で真面目で、いわゆる「いけてない」連中のコンプレックスや寂しさにつけ込む商売が増えている。久利はそれが少し気になった。
エレベーターが降りてきた。
中からはデザイナーの岩田女史たち社内の女性陣が声高にしゃべりながら降りてきた。
岩田は久利のコラム広告などを担当していて、彼が小説を書いていることを知っている数少ない社員の一人だった。
岩田は微笑んで何か言いかけたが、山村との深刻そうなムードを察して、黙礼して通り過ぎる。他の女性達は山村の姿を一瞥し、クスクスと笑いながら通り過ぎる。
山村は困惑したような表情で彼女たちから目を逸らした。
失礼な連中だと思った。テレビのせいだろう。テレビで見る芸人達のお笑いネタが、「いけてない奴」や「変な奴」を揶揄したりあざ笑ったり、そんなクラスのいじめのような笑いでいっぱいになっているのだ。
頭の悪い俺たちは、そんな芸人気取りで山村のような若者を笑いのネタにしている。まさに、山村は昔の俺なんだ、と久利は思った。
その夜、平日だというのに、キャバクラ・JJの店内は賑わっていた。
「ご盛況ですね」と営業トークの久利に、
「宴会流れのお客ですよ。羽振り良さそうですから、せいぜい稼がせてもらいます」とチーフの黒服が答えた。
ボックス席を二つ併せて三人の若者が掛けている。キャバ嬢と併せて五人だ。
「このコミュニケーション・スキルでどんなお客も心の壁を取り払ってくれるんだよ」
力説するリーダーらしきイケメンを嬢たちが目をきらめかせて見つめている。
他の二人は彼の話に追従するように手を叩いている。地味なスーツの若者で一人は銀縁めがね、もう一人は七三分けの髪で、山村のように地味で「いけてない」のが特徴だ。
「店にやってくる、ちょっと自信のなさそうな男性諸君に、このセミナー紹介してね」と彼らは商売熱心だ。
やがてリーダーは手洗いに席を立った。どこかで見た記憶のある顔だなと思ったが、相手もそのようだ。
手洗いから席に戻る途中、久利の前にやってくると、
「その節は、どうも」と頭を下げた。
「君は、あの」と言いかけると、
「ええ、近藤さんの組にいた如月翔です」と言った。デートクラブ・雅のイケメン、翔だった。如月てのが姓なのか。
「組は辞めたのかい」
「おかげさまで、あれがいい機会になりました」
「けっこうなことだ。まっとうな道なら応援するぜ」
翔はにっこり笑うと、
「今は、コミュニケーション・セミナーを主催してます」と言った。
「すごいじゃないか」
「元ホストですから」と翔は苦笑い。
「今日も、そのセミナーの打ち上げの流れです」といい、ボックス席の二人に目線を投げると、
「僕のセミナーで、彼らみたいな男でも、気軽に女性に話しかけたり出来るようになるんです。お客様と堂々と渡り合えるようになるんです」と言った。
「凄いね」と答えながら、久利は先日勧誘を受けたデスビア・ダイアモンドを思い出していた。
デスビア・ダイアモンドとは結婚前の若い男女にパーティーのような乗りで、結婚指輪用にダイアモンドの原石を売るマルチ商法だった。
久利と山村は偵察をかねてそのパーティに潜り込んでいたのだ。
主催者側の若者はポルシェに乗っているというのが自慢の俗物だった。
英国のダイアモンドの会社、デビアスとよく似た名前に怪しさを感じた久利は、「デスビア? デビアスじゃねえのかよ」と言って主催者を慌てさせたのだった。
後から山村が、
「先輩、よくデビアス社なんて知ってましたね。やっぱり日経とか読まないとな」と言ったのだが、久利は「いや、ゴルゴ13で読んだんだよ」と苦笑い。
久利は昨今はやりの自己啓発セミナーにも同じような匂いを嗅ぎ取っていた。
翔は久利に名刺を渡すとボックス席に戻っていった。
「伊達に元ホストじゃないな」と黒服。
「有名なの?」と聞くと、
「ホスト時代には有名でしたよ、売れっこで」と吐き捨てるように言った。少なからぬ恨みがうかがえた。店の女の子が何人もはまったのかもしれない。
手にした名刺を見ると、セミナーの主催者名はライフチェンジャーだった。
店を出て表に出ると山村に出くわした。同じ年頃のサラリーマンと三人組だった。
「遅くまで大変だな」と声を掛けると、
「違いますよ、プライベートです」と答えて、二人をセミナーで知り合った友人だと紹介した。近くでセミナーのパーティがあったようだ。先ほどの翔たちもその流れかと思った。
山村同様、人畜無害で地味な二人だった。三人に、
「そうか、思いっきり羽根伸ばしてこい」と言うと、
「僕だって広告マンなんです。トレンドに敏感にならなきゃ」と山村は力んだ。
二人は「さすが、マスコミ関係ですね」と憧れるように言った。
マスコミ関係とは、広告会社の営業が飲み屋で自分を飾る常套句である。本当のメディア関係者はこんな曖昧なことは言わない。
同様に法曹関係と名乗る者は弁護士や検事ではなく司法書士だし、医療関係と名乗る者は医者ではなく薬剤師だったりする。
久利がそんな皮肉な見方をするのは自分自身の落剥感の故だろう。間違いなく、自分は人生の落伍者なのだと思っている。
三人の背中を見送りながら、そう気づいて苦笑いした。
翌日の午後、アドプランニング・遊の事務所で溜まった伝票を整理している久利の元へ、山村が意気込んでやってきた。駐車場から走ってきたような勢いだ。
「正式に決まりましたよ!」
「何がだよ」
「パパイヤ共済の大友理事長が次期選挙での前進党の公認候補になったんです」
前進党とは政権与党内の反主流派が離党して誕生した保守系の新しい野党である。
その公認を取り付けたと言うことは、「共済組合の理事長」という実績だけではなく、同時に相応の額の献金を党にしているはずだった。
「今から、今後の打ち合わせで大友理事長のところへ行くんです。同行、お願いいたします」と山村。
「わかった」
久利は立ち上がると山村に言った。
「この件、慎重に行こうぜ」
パパイヤ本社ビルに到着すると、入り口に立つ制服姿の警備員に驚いた。先月来たときにはいなかったはずだ。
「ずいぶんものものしいな」と久利が呟くと、
「一応、共済会社なので警備会社と契約したって聞いてます」と山村。
受付は例の美人だ。ただ前回見たときよりは表情が暗い。疲れているのだろうか。
久利たちに気づくと微笑んで、
「理事長たち応接室でお待ちですよ」と言った。
応接室の豪華さは滑稽なほどだった。フロアはカーペットで覆われ、ソファとテーブルの応接セットも高価に見える。
さすがに暖炉はないが、代わりに革表紙の何かの全集が並んだ書棚と高そうな洋酒の瓶が収まったサイドボードなどがあった。建物にそぐわない雰囲気で撮影のセットを思わせた。
久利と山村は、そのソファで理事長の大友達彦と秘書の大友ユリと向き合っていた。
理事長の大友達彦は地味だが高価なスーツ姿であった。
秘書の大友ユリはえんじ色の地味なスーツだが、今風に肩が張ったシルエットだ。スカートに入ったスリットがかなり上まで来ていて、ソファに腰を下ろした時など、その奥が見えそうになる。対面に座った山村は目のやり場に困っているようだ。
「先生、党からの公認が降りたとのこと、おめでとうございます」と久利が頭を下げた。
「長年の夢が叶ったよ」と理事長。
「先生の悲願でしたものね」とユリ。
聞くと、パパイヤ共済組合の前身である中高年の年金相談センターの頃から、国政に打って出る野望があり、日本年金党という政党まで立ち上げたことがあるという。当時の選挙の結果は惨敗だったとのこと。
「今回、前身党の公認になれたことで、本格的に国政で活躍できそうだ」
「共済組合の方は大丈夫ですか?」と久利が聞くと、
「理事長が参院の代議士になることで、ますます盤石になるはずですよ」とユリ。
「そうそう、新たに営業部門に若いスタッフも入ってくれましたしね」と言う理事長に、ユリはにっこりと頷き、
「彼らは優秀ですよ。中高年の男女をどんどん加入させてます」と言った。
山村は、来る選挙に備えて選挙広告の概要と法的な仕組みを説明し、併せて前回選挙の資料を渡した。
「選挙広告の表現などは、色々制限などもありますので、何でもご相談ください」と山村は頭を下げた。
「私どもも、山村さん達を頼りにしてます。よろしくね」とユリ。
客先を出た後、山村は饒舌だった。
「大きな話になりそうですね。うれしいなあ」
現在は印刷関係の案件と求人広告が数回だったからだ。
「よかったな」
「社内の連中に一泡吹かせてやりますよ」
元気な彼を見るのは嬉しかったが、同時に心配も感じる久利だった。
地下鉄久屋大通り駅のある交差点で山村と分かれた久利は、そのままアネックスビルの地下にある公衆電話コーナーに向かった。
五台の公衆電話機がすべて使用中だ。仕事の電話を入れる営業マンらしきスーツ姿が多い。ポケットベルで呼ばれたのであろう。
いずれは携帯電話が普及するのだろうと思われたが一体いつの頃やら。
携帯電話の契約には保証金と新規加入料で合計15万円近く必要で、さらに通話料が別途掛かるのだ。まだ中小企業や個人がおいそれと手が出せるものではなかった。
ようやく空いた電話機の受話器を取るとテレホンカードを挿入してプッシュボタンを押した。
短い呼び出し音の後「中署です」という女性の声に。
「防犯の都倉さんお願い」と告げた。
女性の声は、緊張感を増して、
「至急繋ぎますね」と言った。
待つほどもなく都倉の声が、
「よお、どうした」と返ってきた。
「彼女の緊張っぷりが気になるんだけど」
「ああ、おまえの名前、情報屋(たれこみ屋)って扱いになってるから。前に言わなかったっけ?」
「いや聞いてたけど、その設定って当分リセットはされないわけね」という久利の声から、ほろ苦い気持ちが伝わってくる。
都倉は「がはは」と笑って、
「要件は?」と聞いた。
「パパイヤ共済って知ってるか?」
「最近話題の中高年向け共済組合だろ」
「ああ。そこに関して悪い噂はないかい?」と久利。
「特にはない、逆に何か悪い噂があるのか」と聞き返された。
久利は、自分の勤務先と取引が始まりかけていること、おいしい仕事なのに新聞社の直系代理店が扱わないことなど、感じていた疑念をぶつけてみた。
「俺の口からはなんとも言えんな」と答えた都倉は、やはり何か知っているようだ。
「君の担当分野じゃない訳か?」
「経済犯・悪質商法は生活安全・防犯などのジャンルで、まあど真ん中だ」と都倉は苦笑いした。
「そりゃ言えねえわな」と言う久利に、
「おまえの同級生の弁護士に聞いてみたらどうだ。あの梶田晋平先生」
「知ってるのかよ、彼を」
「この業界は狭いからな。地裁のビルでよく見かけるな。遣り手だそうだぜ」
「そうなのか」
「刑事案件が多いそうだ。相談にはもってこいだぜ」
「わかった、聞いてみる」
電話を切ったが、警察と司法の狭い業界の両方に、首まで浸かっている俺ってどうなんだよと、苦笑いが浮かぶ久利だった。
駅からアネックスビルを地上に上がる。栄公園の噴水広場を横目に見ながら、そこで歌ってたシゲルとそれを見つめてた静香を思い浮かべた。二人は東京で上手くやってるだろうか。
個室ビデオ・ドリーマーの栄店は久屋大通り駅から歩いて五分だ。大通りを一本裏に入った雑居ビルの地下にある。
「毎度、お世話になってます」と言いながら店長に広告掲載誌を渡すと、
「久利さん、雑誌ベリーに載ってる、パブ・ゴリラのコラム広告、久利さんが書いてるんだって?」
「ええ? ようご存じですね」
「今池店の店長から聞いたのよ」
「ああ、そうですか」
広告はビデオレンタル・ルックの店長から紹介されたもので、サブカル系のネタを核にした蘊蓄系のコラム記事と店の紹介をほどよく混ぜた記事スタイルだった。
「70年代のバンドデシネを持ってくるなんて、いい線行ってますよ」と店長。
「おや店長もお詳しいですね」
「今池の彼と同じで、僕もアート系なのよ。丸善でヘビーメタル誌とか買ってましたよ」と一瞬、遠い目をした後、
「あ、そうそう、今池の彼、今度AV撮ることになったみたいよ」と言った。
「本当ですか?」
「モキュメンタリーっていうの? あの偽ドキュメント風のシナリオ書いてたし」
「へえー」と久利。
自分と同じように創作に夢持ってる彼が、一歩目標に近づいたようで久利までうれしくなった。
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