映画レビュー(173)「ぼくのお日さま」


静かなるドラマ

主人公タクヤは吃音の小学六年生。彼の小学校最後の冬の物語。
彼の地方では、冬になると男子はアイスホッケー、女子はフィギュアスケートを練習する。貧乏くじのようにキーパーをやらされているタクヤは、ホッケーの練習後、フィギュアを練習する少女さくらの姿に心を奪われる。
リンクに刺す陽光の中をスローモーションで滑るさくら(中西希亜良)の美しさよ。さくらは有名選手だった荒川にひそかに憧れを抱いている。
タクヤはさくらに憧れるあまり、ホッケーの靴でフィギュアの滑りを真似し始める。
コーチ荒川は、そんなタクヤに自分の旧いスケート靴を貸して練習後にフィギュアの滑りを教え始める。どうやら昔の自分を思い出しているのか。
荒川は、さくらの基礎力とスケーティングの制御力の向上を理由に、タクヤとのアイスダンスを提案する。

以下ネタばれあり

バッジテストの合格を目指して練習をし、次第に息の合っていく二人。コーチと二人の充実した日々。
だが、さくらは荒川が同性の恋人と買い物をしているシーンを見てしまう。
彼は恋人(同性)と暮らすためにこの田舎町に引っ越してきたのだ。
「だから、タクヤを女子の競技に引き込んだの?」と嫌悪感を露わにして、さくらはコーチの元を去る。
バッジテストの当日、ついにさくらはやってこなかった。待ち続けるタクヤに荒川は頭を下げるが、タクヤには事情がわからない。荒川は同じような経験があるのだろうか、悲しみを押し隠して街を去る。
春になり、タクヤは中学生になった。さくらは今でもフィギュアを練習している。
スケート靴を持って歩くタクヤとさくらが、川の畔の道でばったりと再会する。
勇気をふるって一言発しようとするタクヤ。そこで画面は暗転しエンドロールが流れ始める。この作品のインスパイアの一つでもあるハンバート・ハンバートの「ぼくのお日さま」が流れてきて、その歌詞を追いながら涙が流れた。

押さえた描写がより心に響く

吃音が描かれているが、それを気にしているのは実はタクヤ本人だけである。私たちは誰もが、何らかの「吃音」を持っている。それは、顔立ちであったり、身長であったり、コミュニケーション能力であったり。
この作品の中での「吃音」は、本人だけが悩んでいるコンプレックスの暗喩なのだ。
そんな少年を救ってくれたのが、やはり同性愛という心の「吃音」を持った荒川。
子供らしい潔癖さで離れていくさくらにも罪はない。
この作品では、すれちがいは描かれるが、悪人は一人も出てこないのだ。
差別に対する声高な抗議や抵抗、ともすれば判りやすい、言葉を換えればあざといストーリーに陥りがちなところをしっかり踏みとどまっているからこそ、この作品は観客の心に響く。
ラストシーンで再び出会うタクヤとさくら。二人の未来に観客は「がんばれ」という気持ちを抱く。
タクヤにとって、さくらと荒川は「ぼくのお日さま」だったのだろうが、荒川とさくらにとっても、あの三人の時間は「お日さま」だったのだろう。
淡い恋心を、水彩画のような映像で詩情豊かに描いている。
近年の邦画のレベルの高さを思わせる傑作。
(追記)
さくらを演じる中西希亜良にすごい可能性を感じた。四か国語が堪能とのことで、こりゃヨーロッパの映画界が放っておかない感。
また、吃音が本人が悩んでいるコンプレックスの暗喩となっているこの作品で思い出したのが、「ジョゼと虎と魚たち」。この作品も、障碍を持っているがゆえに恋人に対して「一方的に尽くされている」という罪悪感を持つジョゼ。誰もが持っている気持ちを「可視化する装置」として障碍を使っていた。あれも傑作だった。


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