創作エッセイ(81)小説を書きながらの気づき(1)「不死の宴 第一部終戦編」の場合
長編作品は考察時間が長い
長編小説の執筆は時間がかかる。プロットから箱書き、本文、とプロセスを経て作品は仕上がっていくのだが、その間も作品については情報にアンテナを張り、考察を続けている。
そして、それが執筆中の作品に反映される。特に執筆作業に2時間しか集中力が続かない私には考察の時間が豊富にあり、それが作品に反映されるのだ。
書きながらの考察で得た気づき
「不死の宴 第一部終戦編」を書いているとき、太平洋戦争前後の歴史や社会を調べて使えるネタをあさっているうちに気づいたのは、私が義務教育(昭和30年代後半~40年代前半)で習っている歴史とずいぶん違うということ。
学校の授業では、アメリカに占領されなければ日本は民主主義の世にはならなかったかのように教えられた。しかし、大正時代には大正デモクラシーと呼ばれる、かなり自由主義的な社会の萌芽があり、それが戦時体制で制限されていただけだった。戦後、アメリカの占領政策は、その民主主義をアメリカナイズするだけだったのだが、当のアメリカ人達が自分たちが「ゼロから民主主義を根付かせたと勘違い」してしまったのだ。
その後、アメリカは世界の各地でアメリカ的な民主主義の国の独立に関わってきているが、それがことごとく軍事独裁や開発独裁といった、独裁者の国に堕している。フィリピン、カンボジア、韓国など例を上げれば切りがない。
この気づきは、「第二部北米編」への布石として、私の心の中で脈動を続けた。
さらに小中学生時代、太平洋戦争は軍や資本家の暴走で起きて、庶民は犠牲者だという言辞が大半であった。
戦中を舞台にしたエンタメでは、戦争に反対した「主義者」や芸術家やジャーナリズムが英雄的に描かれていた。
ところが作品執筆で調べていくうちに、庶民の感情を煽って購読数を伸ばしていた新聞社という存在が目に付いてきた。
戦後の社会にかけられたバイアス
半世紀近く前の学校教育にかかっていたバイアスに改めて気づかされた。「悪かったのは軍部」「体制側に煽られた愚かな民衆」という図式には、それに嬉嬉として協力していたメディアもあるのだ。当時、そのメディアの反省は小学生の私にはまったく見えなかった。
また、「敵性言語は許しません!」「贅沢は敵だ!」と叫んで嬉嬉として隣人達にマウントを取る愛国者たちの姿に、「~は許しません!」と叫ぶ現代の運動家達の姿が重なった。主張の「向き」が違うだけで、自分たちの信じる正義にそぐわぬ相手は力で屈服させようとする姿勢は鏡に映した像のようである。
奇しくも1972年の浅間山荘事件・山岳ベース事件で、学生運動の闘士達の内部リンチ事件が明らかになったとき、教員だった父は、「旧軍隊の内務半のいじめと同じやんか」と呆れていた。それまで、毎週日曜日に配達されていた赤旗日曜版がぱったりと来なくなったのもこの頃だった。
いつも何かに忖度する私たち
戦中、社会全体(メディアも含んで)が軍部に忖度していたように見える。そして、敗戦と同時に、その忖度先はGHQに変わった。やがて、その忖度先は労働組合になり反米、親ソに変わっていく。
「不死の宴 第一部終戦編」を書き上げたとき、そんな流れがうっすらと感じられた。
この気づきが、その戦後を描く「冷戦編」への重要な布石になった。
書きながらの考察が、続編やスピンオフへの種になるのだ。