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お線香の匂い(日記109)

今日は、朝、起きられなかった。
支度するところまではできたけれど、動けなかった。


ヒーターの前で、コートを着たまま丸まって、目を瞑った。


30分だけ、遅刻しよう。
1時間だけ、遅刻しよう。


そう思って、どんどん時間が過ぎて行った。


会社にはじめて電話して、体調不良で休みたいことを伝えた。
こころの調子じゃなくて、あたまが痛い、と言った。
風邪気味なのはほんとうだから、うそじゃない。
ほんとうのことを言っただけ。
言わなかったことが、あっただけ。


いつも通っている心療内科に、電話した。
無理を言って、今日、診てもらうことにした。




たいせつなひとのことを、何度も思い出すようになった。
思い出す、というのも変なのだけれど、それくらい少ない思い出しかないのに、思い出すようになった。



思い出すとふしぎと、涙があふれてくるようになった。



それがどんな時でも、どんな場所でも、たとえ改札に向かう大勢の人混みのなかでも、あ、と思うと、思いがあふれて、涙がじんわり、滲むようになった。



仕事は、がんばれた。
大切なひとのことをおもうと、わたしがんばるからね、という気持ちになって、がんばれた。



でも、今朝は多分、すっぽりと、穴にはまってしまった。


かなしさや、さみしさが、喉元までせりあがってきて、溢れそうだった。



誰にも言えないさみしさを、クリニックの先生に聞いてもらうことにした。



待合室では、ずっと目を閉じていた。
このままいくらでも眠れそうだった。
目を閉じていると、楽だった。
だからずっと目を閉じて、この世界にいない大切な人のことを、思い出していた。



診察室に入ってすぐ、涙がこぼれた。
大切な人のことを口に出すたびに、涙はとめどなくあふれて、そして同じくらい、わたしの口からは、「さみしい」「かなしい」「会いたい」
と、もう絶対に叶うことのない、叶うことのありえないことばたちが、こぼれていった。



先生は、ずっとこちらを見ていてくれた。
わたしは、先生の目が、見られなかった。



しんでしまえば、会えるんじゃないかと、おもってしまうんです。



泣きながら、そう言った。
そんなことしたって、絶対に会えないのに、むしろそんなことをしたら、もっと会えなくなるのに、この気持ちが浮かんでは消えて、わたしを離さなくなっていた。



先生は、ぐっと身を乗り出して、こう言った。



死んでしまっても、会えないよ。
死んでしまっても、会えないからね。



そうです、そうなんです、もう会えない、会えないです。
だってこの世界には、もういないから。
いないのだから。


けれどね、いつか会えるかもしれませんよ。


先生は、こう言った。


生まれ変わっているならば、いつかどこかで、なにかのかたちで、会えるかもしれない。
きっと、会えますよ。



ああ、ああ、そうですよね。
そうだといいな。
そうなりたいなあ。


だからわたしはやっぱり、こつこつ、がんばりたいんです。
ここで、かなしさのあまり、さみしさのあまり、自暴自棄になるのではなくて、せっかくまた働けるようになったから、こつこつ、できることをやっている姿を、見せたいんです。



うんうん、そうですよ。
それがいちばん、よろこんでくれることですよ。


そうやって、診察は終わった。



帰り道、ふと思い立って、お花を買った。
お墓参りに行こうと思った。


お花屋さんには、いろんな種類のお花があった。
どれもうつくしかったけれども、大切な人に、似合いそうなお花を買った。
ほんとうは、お供え用のお花もあったのだけれど、なんだかそれは似合わない気がしたから、真っ白な、すっくと咲いている、お花を買った。



お寺さんで、お線香を買った。
お坊さんは、にっこりと笑ってくれた。



火のついたお線香を置く。
けむりがたちのぼって、消えていく。
お線香の匂いが、コートに染みつく。
ああ、この匂いが消えなければいいなと思う。
コートを着るたびに、大切な人がそばにいるような、そんな気持ちになれるから。
だから、しばらく、けむりを浴びた。
お線香の匂いを、浴びていた。


買ってきたお花は、背が高すぎた。
こういう詰めの甘いところ、笑われちゃうなあと思った。
なんとか活けて、手を合わせた。
会いにきちゃったよ、お仕事休んじゃったけど、明日からはがんばれるから、と、報告した。




いま、カフェでこれを書いてる。
コートから、お線香の匂いは、消えてしまった。



忘れなくていいんですよ、と、お坊さんは言っていた。
それが供養になりますよ、と。



忘れなくていいんだって、ほっとした。
忘れなくていいんだっておもったら、いま、たくさん、大切な人のこと、思い出してる。



ゆっくりやっていくね。
今までもそうだったから、これからも、そうやって生きてみるね。
あなたは、どうか、あなたの今いる場所で、しあわせに生きてね。
わたしのことは、忘れていいから。
わたしが、あなたのことを、覚えておくから。
忘れていいよ。どんどん行きたいところに行って、見たいものを見て、自由に、どこまでも、すこやかに、しあわせに、生きてね。
わたしも負けじと、しあわせになるから。
あなたを忘れないまま、しあわせになるからね。



また会いに行くよ。
そのときまで、泣きながら、がんばります。

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はじめ
投げ銭?みたいなことなのかな? お金をこの池になげると、わたしがちょっとおいしい牛乳を飲めます。ありがたーい