豊かな笠新道
笠新道で見たいくつもの場面。
これほど変化に富む景色を半日足らずで辿れる道は、なかなか貴重ではないだろうか。
はじめは、約7時間も歩き続けることを考えただけで、どっと疲れが込み上げてきた。
意識しなくても胃が重い。これから登る道の前に立つと、得体の知れない疲れが、どっと全身に覆いかぶさってきた。
登山道は森の中を九十九折に続いている。登り始めはいつも辛い。
こういうときは、諦める。
仕方がないと言い聞かせる。
それでも、樹林帯の木陰は涼しく、ぶなの原生林という豊かな植生にも癒された。
標高を上げると、今度は背後の視界が開け、焼岳、乗鞍岳、穂高連峰、槍ヶ岳の山並みまで、一同に眺められた。
なかなかの絶景だ。
視界が開けるに従い、樹木の背は低くなり、岩がちな斜面に咲く高山植物に気を取られるようになった。
濃紺の花はトリカブト。
薄紫はハクサンフウロ。
ほかにも何種類もの花が咲いていた。名前は知らない。
ただ、そのすべてが可愛らしい。
見上げると、視線の先で斜面が空に吸い込まれていた。登山道もそこで途切れているように見える。
そこが杓子平の入り口だった。
杓子平には、それまでの急登が嘘のような、両手に収まらないほどの、大きくてなだらかなカールが広がっていた。
その窪みへ吸い込まれるように、登山道は緩やかに高度を下げて進んでいく。
いたるところにチングルマが咲いていた。すでに羽毛化して、ふわふわになっている。
北アルプスらしい景観を前にして、腰を下ろして持ってきたお菓子を食べながら一休みする。
楽園のような景色を眺めていると、これまでの疲れは爽やかな風とともにどこかへ飛んで消えてしまった。
夢のようなひと時に満たされる。
重たい腰を上げて杓子平を過ぎると、あたりはいよいよ森林限界を越え、間もなくして笠ヶ岳へ続く主稜線に飛び出した。
素敵な景色に助けられ、ここまで来た自分を褒めてあげたい。
気づけば、今朝の暗い気持ちはすっかり霧散し、清々しい疲労感に包まれていた。
目の前には一本の登山道が横たわっている。
笠ヶ岳までは間もなくだ。