変わる考
誰彼かまわずつきあうことをモットーとしてきたが、自己紹介で、女房殺して服役してましたと言われたときはさすがに困った。誰彼かまわずつきあうものではないなと少し思ったが、実際はモットーや信条などという大それたものではなく、自然とそうなるだけなので直しようもない。女房を殺したという彼に、なんで?どうやって?と聞きたいのを我慢して、平然と仕事の話を進めることにした。
人の人生、やってきたことを不用意に聞く人がいますね。聞いて理解できないことはないという前提に立ってるんでしょうけど、そんなに人生甘くない、人の人生ですよ?計り知れないものがあるに違いないとまず考えるべきでしょう。だからといって、何も聞かないでいる、というのも不粋。ここが難しい。
ええ、プチブルの生まれで親が近親婚だから血が濃く生まれて体弱いんです、
親が離婚してどっちも引き取らず孤児同然に育ちました、
中学の時にいじめてた奴が自殺しましたが、あの頃だから問題にならずよかったと思ってます、
ヤクザのもとで禄を喰んだことあるんですよね、
癌で余命告知受けて30年経ちましたがなんだかまだ生きてます、
金もないし成功もしてないけど愛人が片手ほどいました、
銀座で使ったお金は億円いくんじゃないかな、云々。
子供の時は神童と呼ばれてました、喧嘩負けなしです、とかは昨今、SNSでエビデンスがとれるので言い値は効かない。きんさんぎんさんくらいになったら別で、すべて言い値で生きていけるでしょう。
おそらくクソ長生きのいいところはそこですね。証人ゼロの世界を独尊して生きられる。近しい人はすべて死んでしまったのに飄々としていられるのはそういう気軽さに違いない。
知り合った限りはその人のことを知りたい。これは人情。でも、自分に理解できないことはないという前提はやや不遜と思える。逆に、聞いてもらっておいて相槌が気に入らないからといって、わかったふうなくちをきくな!とかも傲岸の謗りを受けるだろう。わかりやすいところから話しておくかと変に気遣うと、その一部でもうぜんぶわかった気になられて、自分のすべてに敷衍されたらこれはこれで気に喰わない。
平田オリザは、人はわかりあえないのだ、それを前提にせよとか言っていたが、それも淋しい。
いったいじゃあ、どうしたら良いだろうと考えたときに、いけしゃあしゃあと「自然体で」「平常心が大事」とか言いたがる、したり顔の道徳家にでもなったかという人がいるが、これも面白みに欠ける。
人と人が出会う醍醐味は、何がしかの揺らぎが互いに生まれるところではないのか。出会って、出会う前と互いになんら変わらないなら、出会った意味はさしてないように思う。これは人に限らない。すべての経験、特に芸術や文学や映画がそうだ。映画館を出てきたときに何故か肩で風を切りたくなる。それはヤクザ映画に感化されたからで、いいことだ。としておきたい。
生物学者の福岡伸行や養老孟司が盛んにいうところの、人間の細胞は数ヶ月だかで全部入れ替わっている、物理的にはまったくの別人なのだという論が私はとても好きだ。
Change!、それがすべてだと標榜したどこだかの大統領がいたが、スローガンにしなくても毎日毎時、人は変わる。だから、首尾一貫、ブレない人に魅力を感じる傾向が生じるのかもしれないが、そういう人でも微細に変わり、適合を繰り返していると思う。そうじゃなければ、彼女や彼の生身と話す必要はないだろう。本か動画に撮っておけばよく、周りはそれを参照すれば良い。
メタ世界がどれくらいのレベルでやってくるかはわからないが、この生身の価値はむしろ、ハイパーインフレで上がり続けると見込んでみる。生身とはつまり、速攻で変わり続けるということ、それを請け負うということだ。平田オリザの言も、互いに毎秒で変わっているもの同士がわかり合うはずもない、とすれば認識しやすい。淋しいとか言ってる場合じゃないのだ。淋しいと言ってる私はもう、今ここにはいないんだから。
もっと、淋しいのか。