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桜にも名句なし?
今年(2012年)の桜は見事だった。開花直前、3日間くらい続いた殺人的な冷え込みが効いたのであろう。いつもなら、今日か明日かとなるような生暖かい日が続き、気のはやる枝がフライングして、晩熟(おくて)の枝が咲くころには散り始めてしまう。だから桜の満開とはたいがい八分咲きを指すのだが、今年の桜は十分咲いたのではないか。まだ一枚も零さずにすべてが咲ききって、まる一日以上満開を保持したのではないか。咲くのがそうなら散るのもそうなる。一斉に散った姿はこれまた筆舌に尽くしがたいものだった。
桜を詠んだ俳句にはさぞかし名句が多かろうと思われがちだが、これが意外とない。
かの芭蕉でさえ、
初桜折しも今日はよき日なり
なんてつまらないことをいっている。一茶は、
夕桜家ある人はとくかえる
などと恨みがましい。どう感動していいのかわからない。
とどのつまり、桜に負けているのだ。桜がもつ圧倒的な物語性に韻文世界が弾き飛ばされている。良寛の辞世の句として伝わる、
散る桜残る桜も散る桜
は、たしかにそうだとおもわせるが、たしかにそうでしかない。「たしかに」とか「御意、ごもっとも」とかおもわせるのは詩情から遠ざかる。なにより理知的でアタマを使ってしまった感が残念である。
作者不詳だが、ひじょうにポピュラーな、
人のゆく裏に道あり花の山
にいたっては、いまや株で儲けるための心得になってしまっている。
短歌においても事情は変わらない。名歌中の名歌と目されてきた、
世の中にたえて桜のなかりせば春の心はのどけからまし
は、最近駅名を失って無念であろう在原業平の代表的なものだが、やはりここにも反実仮想の知性が居座っており、これの返歌、
散ればこそいとど桜はめでたけれ憂き世になにか久しかるべき
も、まるで問答のようで、その場にいたら、おお!さすが!となったのかもしれないけれども、理知対理知でおおいに議論してしまっている。ポエジーの匂いがしない。
こうしてみると桜は、まるで理性や知性に訴える力を持っているかのようで、その美しさ、潔さ、物語性は人間に理性で対抗させるよう仕向けるのかもしれない。人間が持ちたいとおもう詩心を桜は容赦なく砕くといってもいい。
そんな中にあって桜の俳句を一つ選ぶとすれば、私はこれを選ぶ。
夕桜うしろ姿の木もありて
いまや俳句界を背負って立っているとさえ思える、長谷川櫂の俳句。手法としては「見立て」と呼ばれる部類に入るが、これが俳句の目線だとおもうのである。
俳句はひねらない。という作法(さくほう)に私は賛成しているが、これなどもまさしくなにもひねっていない。ものを見るその目線、姿勢自体がひねられてあれば、言葉はもうそのままストレートに出せばよい。そういう手本。
長谷川より10歳上の、「三月の甘納豆のうふふふふ」で一世を風靡した坪内稔典は、最初から勝負しない。
桜散るあなたも河馬になりなさい
俳句はこんなのでもいいのだ。同じ句会に出ていたら、私はこの句に一票投じるだろう。そして評を述べるときには、こういうのだ。
逃げ切りましたねえ、と