君がドアを閉めたら、夜は永遠に続くよお日様は外に締め出され、こんにちはを言えなくなるよ。

 ぼっーとしていられる短い日々も過ぎて、夏にやった『暗愁行尸』以来の稽古の日々がもうすぐやってくる。一人芝居の稽古は始まっているのだから、正確には稽古の日々はもう既に到来しているのだけど、でも、やはり、排気口新作公演の稽古は重みが違う。大変さの意味で。

 冬にしては暖かな日差しが続くが、この穏やかさもまた断片的に差し込まれる寒波によって切れ切れになるのだろうか。ぼんやりとそんな事を思いながらTシャツにジャージで近所のコンビニまで歩いて行く。今はただTシャツで外を歩けるこの柔らかな黄色い日差しに感謝。このままずっと続いて、積雪も解け、春の芽吹きに相成って欲しい。

 ホラー公演を覗いて、数年前から、なんでもない時間を描きたいと思って台本作業をしている。私にはそりゃあ言いたいことも多少はあるんだけれど、演劇を通して伝えるほどの強度をもった言葉はそんなにない。想いもない。そんなに。そんなにって事はあるにはあるんだけど。

 最近、とくに思うのだけれど、人は始まりの中で終わりを考えて。そして終わりの中で始まりを考える。誰かと初めて出会って言葉を交わす時「ねえどんな音楽が好き?」「えっとね」って相手が言い淀む短い間に、その人との別れを考える。この人と私はどんな風に仲良くなって、或いは仲良くならなくて、どんな風に別れるのだろう。

 例えば恋人との別れの話の中で、もうこの関係性は決定的にダメだなって思い知る酷い言葉を投げつけてから30分とか1時間とか経って、勝手に自分だけ冷静になった時、初めてのデートで君が乗り換えをミスって50分とか遅れてきた時に、でも君が申し訳なさそうな顔をしてながら、ちょっとはにかんでて笑い声交じりの「ホントにごめんね」って響きが、すごく夏の夕方に似合ってた事を考えたり。でももうマジで謝ってない感じの「ホントにごめんね」には心底呆れてるんだけれどってまた腹立ってくる一瞬。

 食べ物じゃないんだから、私たちはハッキリと好きとか嫌いとか言えない時の方が多い。食べ物でもハッキリ言えない時が沢山あるのに。生のカボチャはだめだけど、かぼちゃの天ぷらは好きな時、私はかぼちゃを好きってハッキリ言えるだろうか。

 ハッキリ言う事にはエネルギーがいる。行った事の責任も伴う。好きって言うのも嫌いっていうのも。そこ右!!って助手席で言うのも、お前が右って言うから曲がったら一通じゃんって怒れられる。

 だからこれが始まりって言うのも、これが終わりって言うのも、ハッキリとしたものは実は言いたくない。なんて、めんどくさがりな私は、或いは、貴方は考えたりする。

 もう終わったと思ったものがまだ終わってなかった事もある。始まっていたと思った事が始まってなかった事もある。始まってるのか終わってるのか全然分からないものも部屋には沢山ある。過去にもある。この先だってある。

 だから哀しみばかり、歓びばかり、辛さばかり、楽しみばかり、そんな「ばかり」じゃあない。それらが混ざって、見分けがつかないものだらけが、私の、貴方の、時間には在る。不安な顔して落ち着ているように、安心な顔で震えている様に。

 皆さんの穏やかさを祈って。排気口の公演も、一人芝居も観に来てね。


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