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連載小説『私の 母の 物語』一(11)

 祖母はその後大阪の病院で療養して、精神病になる前の祖母にもどった。退院した後の祖母は実に確かなものだった。
 大学生になったわたしの成績に『優・良』がほとんどなく、『可』ばかりだと知ると、「パパ、この子は何年かかってもいいから大学だけは卒業させてやりなさい」と父に云った。公立大学と私立大学の両方に合格しながら、私立を選んだわたしの学費が月三万円すると聞かされても、「なんだ、そんなもんかね」と事もなげに云った。もとが裕福な生まれのせいもあってか、普段は黴のの生えたものでも食べるような質素な暮らしぶりでも、勉学や趣味には金を惜しまなかった。
 祖母は抹茶が好きであった。わたしが大学で茶道のサークルに入ったことを誰よりも喜んでくれたのは祖母であった。夏休みや冬休みに帰省するたび、わたしは祖母に茶を点てた。祖母は自分から茶を点ててくれと云うことはなかったが、わたしが茶を飲もうと誘うといつも嬉しそうに家族の誰よりも先に和室にきちんと正坐して待っていた。祖母はわたしが茶道を始めたのがよほど嬉しかったらしく、東京に戻るときはいつも小遣いをくれた。そのときのことばがふるっている。「幸よ、これで酒でも飲め」というのである。
 祖母が死んだときは気分が悪いから医者に送ってくれと姉に云い、自分で歩いて車に乗り、医院に着いてそのままそこで亡くなった。家族に介護の労もとらせず、自ら苦しむこともなく、実に見事な死に方であった。父と母には自分の葬式代はちゃんと用意してあるからと云い、事実通帳には百万ほどの金が残っていたという。
 毎日二時間ほどかけて新聞に隅から隅まで目を通し、日記をつけ、ときには俳句を詠み、寝る前には欠かさず経をを唱えた。病院から家に戻って、八十三で亡くなるまで、もう二度と幻の世界に迷うことはなかった。

 しかし、母はわすれるひとになる前の母にもどることはないそうだ。進行がゆっくりか速いかは別として、ますますわすれるひとになっていくだろうと医者から云われている。祖母のように徘徊するようになるかもしれないし、いずれは父のことも姉のこともわたしのこともそれと分からなくなるのかもしれない。あるいはそうなる前に母の寿命が尽きることも考えられる。

 母がわすれるひとになったということを、はじめ父は認めたがらなかった。姉とわたしがこれは病気だから・・・と云っても、「おかちゃんは前からそんなとこがあった」と云って、接し方を変えようとはしなかった。
 たしかに母は元々奔放なところのある人で、わすれるひとになる前からかなり大雑把なところがあった。例えば、出したものは元へ戻さず手近なところへ置きっぱなし、水を飲むときにコップがなければプリンのカップだろうが汁椀の蓋だろうが何でもそこにある物を使う、掃除をするときは書類の中身など確認もしないで机の上にちらばっているものは必要ないものとみなして捨てるなど、万事にこだわりがなかった。
 それに対して父は万事にこまやかで物事を丁寧にする人であった。東京に下宿していた学生時代、よく父が食べ物などを送ってくれた。宅配便で届くその荷物には必ずしっかりと紐がかけてあり、缶詰が入れてあるときには必ず缶切りが入っていた。母が缶切りぐらい自分で買うからいちいち付けることはないと云っても、父はわたしが困るといけないからと云って聞かなかったそうだ。(続く
 


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