連載小説『私の 母の 物語』三(24)
この頃の父は、毎夜眠りを妨げられる肉体的な疲れとこれまでと違う言動を繰り返す母と向き合う精神的な疲れの両方に苛まれていたのだと思う。わわたしが母をわすれるひとにしたのは自分が大きな原因ではないかと気に病んでいるように、父も自分が母の病気の一因をつくってしまったのではないかとこころを痛めていたのかもしれない。
几帳面な父は大雑把な母のやり方を好まない。だから、料理でも洗濯でも掃除でもいちいち母のやり方に注文をつけて、気に入らなければ自分がやり直す。そのうち母は、家事のほとんどを父に任せるようになり、自分は得意の裁縫ぐらいしかしなくなった。そうしてほとんどの家事を母から取りあげてしまったことが、母をわすれるひとにした一因だと父は思っているようだった。
父のこころの奥底には澱があるように思う。母との結婚を反対された理由は、自分が高卒で教員免許がなかったことだった。まだ代用教員の父がどうして母を食べさせていくのかと母の親から問い質されたとき、もし正式な教員になれなかったら、どんな仕事をしてでもけっして路頭に迷わすようなことはしない、と云った話はすでに書いた。
子どもの頃のわたしには、父は生来まめな質で、家事一切を苦にせずむしろ楽しんでやっているように見えた。しかし、今にして思えばそれはつくられた性質であったのかもしれない。母を幸せにすると誓った、母に苦労をかけまいという思いが、父を《主夫》に変えたのではなかろうか。
父は十人兄弟の末っ子で、しかも十人中八人までが女だったので、末っ子で男の父は兄弟の中でもとりわけかわいがられたという。祖父は山あいの町で百姓をする傍ら博労の仕事をしていた。上から三番目に兄、わたしからすると伯父がいるが、その他は女ばかりである。祖父は家から遠く離れた海の近くの神社に「男の子を授けてくださったら、十五になる歳にお礼参りに来させます」と願かけをした。そこは商売の神様で、博労の仕事をしていた祖父が毎年お参りに行っていたところだという。そうして父が生まれた。末っ子でしかも待望の男の子だった父は、歳の離れた姉たちからもかわいがられ、祖父母にも大切に育てられた。父がいたずらをしたとき、一度だけ祖父が拳を振り上げたことがあったそうだが、終にその拳は父の頭の上に落ちてくることはなかった。高校で下宿をして自炊をしたとはいえ、そんな父がそれほど家事の手伝いをさせられたとも思えない。
若い頃の父は、今のようにまめで堅実な質ではなかったのではないか。母と出会ったときの父が、七千円にも満たない月給にもかかわらず飲み屋に二万円のつけがあったということからもそのことは窺い知れる。(続く)