連載小説『私の 母の 物語』一(12)
だから、母がわすれるひとになったと云っても、はじめのうち父には以前からの性格に加齢によるものわすれが加わったとしか思えなかったのかもしれない。
ただ、しばらくするうちに父は、母がわすれるひとになったのを認められないというよりも認めたくないのだということが姉にもわたしにも解ってきた。病状が進行することはあっても回復の見込みがないという現実は、父をいっとき悲観的な考えに陥らせた。
それからの父は三、四年ほど、母の言動のひとつ一つをとらえては「悪なってきた。これからますます悪なるやろな」と顔を曇らせた。わたしが「そうかあ? 前からそんなんやったで」と云っても、「いや。前はここまでひどなかった・・・・・・」と云って譲らなかった。
母の状態をもっとも的確に判断出来たのは、義兄かもしれない。盆や正月にわが家に来たときや、母が訪ねていったときなどに、「この間来たときよりちょっと進んだ」とか「一年前とそれほど変わってへんな」とか姉に云うのだそうだが、姉の目には感じられない変化を、義兄はよく把握していたという。
あの頃は、父が母を変わっていく、変わっていくというみようとしていたのと逆に、姉とわたしは変わっていない、変わっていないとみようとしていたのかもしれない。
名古屋に停車した。母といると、時間がゆっくり進むように感じられる。まだ一時間くらいしか経っていないと思っていたが、実際はもう二時間近くが経過していた。
「あと一時間ぐらいで新大阪に着くで」
「わたしや昼食べたかな」
さすがに笑ってしまった。
「ねえちゃんとこでサンドイッチ作ってもらって食べたらしいで」
「それからどうしたんならあ?」
「しながわ駅まで送ってもろたんよ」
「誰にぃ?」
「ねえちゃんによ」
「光はどうしたんならあ?」
「家へ帰ったんよ」
「誰とぉ?」
「誰とって一人でよ」
「一人で家まで帰れよかの?」
姥捨山を思った。息子が母親を背負って山を登っていくときに、母親が木の枝を折って道に落としていく。息子がそんなことをして家に帰ろうとしても無駄だと云うと、これは自分のためではなく、おまえが帰り道に迷わないためだと云う。姉の帰り道を心配する母は、まるで姥捨山の母親のようだ。
「腹減ったか?」
「いや・・・・・・」
何か食べれば、昼食のことは気にならなくなるかもしれないと、アイスクリームを買ってみた。しかし、三分の一ほど食べて残した。甘いもの好きの母には考えられないことだ。腹も減っていないのに、どうしてこんなに昼を食べたかどうかを気にするのか、家でもこれほど何度も食事のことを尋ねられたことがなかったので、いぶかしかった。
関ヶ原をすぎる頃だったろうか。黙って窓の外を見ていた母がわたしに顔を向けて、
「幸彦や光は板尾の寺から小学校へ通たんやったかな?」
と尋ねた。
母の記憶はしばしば入り混じる。これまでも今住んでいる家からわたしが中学に通っていたのかと尋ねたり、姉が帰省してきたときに今いる場所ではなくそれ以前に住んでいた場所から帰ってきたと思っていたりすることはあったが、これは初めて聞く内容だった。
心づもりはしていても、自分の想定の枠からはみ出した言動に遭うと、一瞬うろたえてしまう。(続く)