連載小説『私の 母の 物語』二(18)
かと云って、わたしはもう就職活動をするつもりはなかった。その頃わたしはある趣味の団体に属していたが、趣味とはいえその団体の組織は全国に及んでおり、何かとしがらみが多かった。こちらは逆に営利団体ではない分、主義主張が食い違ったときに方針を決める軸となるものが曖昧で、しばしば長く組織に属している人、声の大きな人の主張が通った。体質は保守的で新しいことには多くの人が及び腰だった。数年いるうちに息苦しくなって、わたしはその団体を脱退した。
大学を卒業して初めて就職したときから、仕事には向き・不向きなどなく、向くように努力するべきだと自分に言い聞かせてきた。そう言い聞かせながら電気機器メーカーに約六年、専門学校に十年勤めた。自分の不向きを云うことは自分の努力不足を棚上げすることだと思ってきた。それにそれを認めることは、自分の無能を認めることのような気もした。
だが趣味の組織でさえ息苦しくていられない自分が、仕事の組織に身を置き続けることはもう限界だと感じた。そろそろここらで、誇張も謙遜もなしに自分の向き・不向きを考えてみてもよいのではないかと思った。もっとも向き・不向きは自分には分からない、自分以外の人間にしか判断出来ないものだという人もいる。それも一理あるが、自分の感情のおもむきを後押しする論理があれば、それを拠り所にするのがおおかたの人間であろう。少なくともわたしにとっては、自分を納得させられる理由さえあればそれで辞めるには充分だった。
電気機器メーカーのときは辞める前に鬱のような状態になって、後任者にしっかりとした引き継ぎもしないまま去って迷惑をかけた。今度は区切りのいいところまで勤め、きちんとした引き継ぎをしたい。わたしは残った有給休暇をほとんど使うことなく、辞めるまでに仕事を出来るだけ整理して、新学期の始まる前の三月三十一日をもって、十年勤めた専門学校を辞めた。
電気機器メーカーのときには、後先考えずに辞めた。まだ三十になる直前で歳も若かったし、後先考えられるような精神状態でもなかった。今回はさすがに何の心づもりもなく仕事を辞めたわけではない。ただ、その心づもりはまだ漠としたものだった。
わたしは国語専門の私塾を開こうと考えていた。自分の《向き》を考え、自分に出来そうなことを考えた結論がそれだった。これなら自分が大学で専攻した日本文学の知識も活かせるし、私塾ならば組織のしがらみに縛られることもない。ただ、それで食えるかどうかは疑問だった。何年も前からプランを温めながら躊躇していたのもそこが一番の理由である。しかし、専門学校を辞めて、もう会社勤めはしないと決めた以上、ほかに思いつくこともない。算数や英語も教える総合学習塾にするという選択肢もあったが、専門学校で畑違いのコンピューターを教えたときの違和感を思うと、わたしにはそれは出来そうもなかった。数学や英語の教員を雇う、あるいは共同経営者を募るという方法もあるが、そうなるとまたしがらみに縛られる。和歌山に国語専門の塾はなさそうだったから、自分一人食べていくくらいはなんとかなるのではないか。幸いというべきか、結婚の話が流れたことで式にあてるつもりだった貯金が残っていたから、それを開業資金に回すことが出来た。
ただ、まだ家のローンも残っていた。が、わたしはいざとなれば家を売ればよいと思った。どのみちわたしには分不相応な家だから・・・・・・。(続く)