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連載小説『私の 母の 物語』十四 (70)

 小学校の教員をしていた父と母にも少なからず非難の声があったようである。郷土愛やへき地教育の充実を唱える山あいの学校の教員が自分の子どもだけにはエリート教育を施すのかと、面と向かっては云わないまでも保護者や同僚たちの中にもそんな声があることは、父の耳にも届いていたようだ。わたしの進学が地元の中学校の学級編成に影響を与えることは、教員である父には当然分かっていて、町の教育長に相談に行ったらしい。
「井上君、それは行政の考えることだ。学校側の都合で一人の生徒の進路を変えさせるようなことがあってはならない」
と当時の教育長は云ってくれたという。
 しかし、そのように一人の生徒の去就がクラス編成はおろか学校の存続にまで影響するのが過疎の町である。このような過疎の町が日本全国には何百もあることだろう。津波に襲われなくても原発事故が起こらなくても、進学や就職で故郷を離れなければならないのが過疎の町の多くの子どもの宿命である。生まれ育った町で進学して就職して結婚して子育てをするなどということは夢のまた夢だとわたしは十二歳の頃から思っていた。これはおそらく佛のように和歌山の中でも人口が何万もある市で生まれ育ち、いったんは故郷を離れてもまた自分の街に帰ってきて何かしらの仕事のある人間には感じることのない感覚であろう。
 わたしは和歌山を出て戻ってきたが、ふるさとに戻ってきたと感じたことは一度もない。わたしにとってのふるさとは、十二歳まで過ごした山あいの町だけであり、その後移り住んだどの町でも市でもない。そしてその生まれ育った町にさえ、わたしはふるさと感じなくなってしまった。今の住まいからは車を一時間余り走らせればふるさとの町に行けるが、そこはもはやどこか懐かしい匂いのする旅先である。

 自らの意志で故郷を離れたわたしには、自分以外のものの大きな意志によって故郷を離れなければならなくなった気の毒な人たちが羨ましい。その人たちは、故郷を離れざるをえなかったのであって故郷を捨てたわけではない。外の人から見れば、わたしだって故郷を捨てたわけではなく離れざるをえなかったのだから同じだということになるのかもしれないが、多くの同級生が高校進学か就職のときにふるさとを離れるのに、自分が中学進学でふるさとを離れたことで、わたしにはそんな屈折した気持ちがあった。そして、故郷を追われる人たちに眉をひそめながら同情のコメントをよせる都会育ちと見えるテレビのキャスターたちが腹立たしく思われた。わたしはこの人たちとは違う物語を生きているのだと感じる。(続く

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