連載小説『私の 母の 物語』十二 (62)
十二
その年は父と母の結婚五十年目であったので、姉夫婦と相談して金婚式の記念の旅行をプレゼントすることに決めた。ただ、もう二人だけで旅行するのは大変なので、姉夫婦とわたしも同行することにして、父と母の費用を姉夫婦とわたしが出す形でお祝いにしようということになった。父も母も二人で行くより家族皆で行くほうがうれしいと云う。
それはよいのだが、わたしには手持ちがほとんどない。今回ばかりは両親に費用を出してもらったのではお祝いにならないから、なんとか十数万円の費用を捻出する必要がある。考えた末、切手のコレクションを買い取り店に売って、その費用を旅行資金にあてることにした。もっともこのコレクションも母から譲り受けたものだから、実質わたしは祝いをするのではなく、祝いの旅行に同行するだけである。
(大人失格・・・・・・)
買い取り店から口座に振り込まれた十数万円の金額を確認しながら、わたしの頭の中に佛と飲んだときのことばが蘇ってきた。
父と母の結婚記念日は三月十五日なので、春分の日の祝日で三連休になる三月の下旬に日程が決まった。富士山が好きな母のために、姉が富士山の見える宿を探して、西伊豆と箱根に一泊ずつすることになった。西伊豆のホテルには特別なサービスも頼めるようで、姉は父と母の金婚式用に特別なプランを頼んだと電話で知らせてきた。
父は伊豆・箱根のガイドブックを買ってきて、今度泊まる予定の宿のページに付箋を貼って、近くにはこんな名所があるらしいなどと旅行前の予習を楽しんでいた。
新幹線のチケットとレンタカーの予約もして、今の季節だと花冷えもあるかもしれないから、着るものはどうすればよいだろうかなどと相談していた矢先に、東日本大震災が起きた。
三月十一日の午後、塾で子どもたちが来る前の準備をしていると父から電話があった。東北地方で巨大な地震があり、津波で建物が流されている様子がテレビに映っているという。
わたしはインターネットの画像でその様子をわずかに知った。いま現在でも甚大な被害のようだが、おそらくこれからますます被害が拡大してくだろう。阪神淡路大震災のときがそうだった。あのときは最初発表された死者数がテレビを観るたびに変わって、千人が二千人に、二千人が三千人にと数字が増えていった。えらいことだとは思ったが、それでもこれから始まる授業の用意に取りかかると、それは意識の片隅に追いやられた。
その夜家に帰ってから、テレビでさまざまな津波の映像を見た。
大変な時代になったものだと思う。わたしは同じようにテレビの画面を通して観た湾岸戦争やアメリカの同時多発テロの映像を思い出していた。湾岸戦争のときには、暗闇の中でミサイルや曳光弾の光が飛び交っていた。アメリカの同時多発テロのときには、世界貿易センタービルに旅客機がゆっくりと激突する様子が流れた。それは現実であるはずなのに、フィクションのように思えた。
湾岸戦争の光は、高校生の頃に流行ったインベーダーゲームのような感じがした。同時多発テロの旅客機は、コンピューターグラフィックスの動画を思わせた。そこには爆弾の先で飛び散るであろう肉塊も、旅客機の中に響く阿鼻叫喚もない。